「私、ちょっと」
そう言って、バッグを持って席を立つ。
「ああ、うん」
課長は言いながら、日本酒をちびちびと飲んでいた。
私は個室を出て、お手洗いに向かう。
うん、フラフラしているようなことはない。あんまり楽しいから、酔いがかなり回っているのかな、と思ってたけれど、足取りはしっかりしているように思う。
いや、足取りを気にするなんて時点で、けっこう酔っているのかもしれない。しっかりしないと。
お手洗いに入って用を足してから、手を洗って鏡に向かう。
自分の頬に手を当てて、覗き込む。
化粧、崩れているかな。口紅は剥げてきているから、塗り直さなくちゃ。
私はバッグの中から化粧ポーチを取り出す。
ポーチの口を開けて、口紅を一度手に取ったけれど、すぐに手放した。
その前にファンデも塗り直そうかな。それならアイラインも手を入れないと。
と、ポーチの中をごそごそと探っているうち、あれ? と思う。
私、ちょっと気合を入れすぎじゃない? なんだか少し、意識しすぎじゃない?
そういうの、変じゃない?
うん、今日は単に送別会なんだし。必死過ぎる、なんて思われたら恥ずかしい。自意識過剰なんだ、きっと。
だって本当に口説こうとしているのかも、なんだか怪しいし。
それにもし、本気で口説かれたとしても、まだ……誰かとどうこうなるっていうのが、少し、怖い気もする。
さんざん考えた挙句、私は口紅だけ引き直して、お手洗いを出た。
◇
個室に戻ると、課長はすぐさま腰を浮かせた。
「二次会、行きたい店があるんだよね?」
「え、あ、はい」
「じゃあそろそろ行こうか。もう二時間過ぎたし」
もうそんなに経ったのか、と少し驚く。個室だからよくわからなかったけれど、それなりに賑やかになってきているから、お客さんも入っているのかもしれない。
それならもう退店の頃合いだろう。
私は課長について、出口のほうに向かう。その間、バッグから財布を取り出した。
奢りのつもりかもしれないけれど、割り勘にしなくちゃ、と思っていたのだけれど。
課長はレジの前を通り過ぎた。
「えっ」
「払っておいたから」
「ええっ」
レジの近くにいた店員さんが、「ありがとうございましたー」とにこやかに私たちを見送る。支払いを済ませたことは間違いないらしい。
私は慌てて店を出て行く課長の背中を追う。
追いついた私は、横に並んで言った。
「あの、半分払います」
「いいよ、送別会だし」
「でも」
「ちゃんと下心はあるから、いいよ」
そう言って笑う。それで私はなにも言えなくなった。
どこまで本気なのだろうか。わからない。
「あの、ごちそうさまでした」
頭を下げながらそう言うと、課長は左手を軽く上げた。
その手をそのまま前に出してゆったりと前を指さす。
「行きたい店って、第二新天地公園の近くなんだよね?」
「あ、はい。真ん前のビルで」
「ふうん」
それで会話は終わって、なんとなく気まずくなった。
下心はある、ってそれをそのまま受け取ったら、つまり私はその誘いに乗っているということなんだろうか。
いやでも、これは送別会だということだし、そこは甘えてもいいんじゃないだろうか。
だったら、二次会は私の行きたい店なのだし、次はちゃんと払わなくちゃ、と思う。
課長の下心に付き合う気がないのなら、そうするべきだ。
けれど、付き合う気、ないのだろうか。
自分の心のことだけれど、よく、わからない。
だって正直なところ、この送別会に誘われるまで、まったくそんな気はなかった。男性として意識したことも、なかった。
こんなに急速に湧き上がってきた話に、どう対応すればいいのかもわかっていない、というのが現状だ。
もし本当に課長が下心があるというのなら、それはいつから?
そう考えているうち、一つ、思いついた。
……まさか、私の不倫話から……?
その可能性に気付いて、ぞっとする。
まさか、他の男に簡単に騙された女だから、簡単にヤれるって思われた?
それならちょっと、つまみ食いしてしまおう、って?
誘ってみたら、二人きりの飲み会に、簡単に乗ってきたって思われてる?
「あー!」
ふいにこちらに掛けられた声に、思考を中断させられて、顔を上げる。
「木佐貫さーん。おはよーございまーす」
夜だというのにおはようと言いながら、真っ赤なスーツの派手めなお姉さんがこちらに手をひらひらと振った。
「ああ、紗耶香ちゃん。今から出勤?」
紗耶香ちゃん?
私は思わず、課長の横顔を見上げて固まってしまった。
課長はそのお姉さんににこやかに対応している。お姉さんは、どこからどう見てもホステスさん、という人だった。
お姉さんはにこにことしながら、課長に話しかけてきた。
「うん、そう。どしたん、可愛い子連れてからー」
「ちょっとね」
可愛い子、は状況を考えれば私のことなのだろうけれど、とりあえず女連れには皆にそう言っているという感じがひしひしとした。
「うち、来るん?」
「今日はちょっと。また今度」
「なんだあ。ほいじゃあまた今度ね。待っとるけえね」
そう言って、また手を振りながら立ち去っていく。
課長も軽く手を振り返していた。
……なんだか、ずいぶん気安い間柄、という感じがする。
「……『夜の蝶』のお知り合い、多いいんですか」
「えっ? 多くはないよ。紗耶香ちゃんは部長がよく行く店の子」
私の言葉に、焦ったように課長が返す。まるで弁解を聞いているみたいだ。
「へえ」
紗耶香ちゃん、か。親し気に。
私に下心があるって言ったくせに。なんだかむかむかする。
いや、むかむかするのはお門違いというものか。課長と私は付き合っているわけでもなんでもないのだし。
「いや、本当に。単なる店の子だから」
さらに重ねられた弁解に、私は言った。
「別に疑っとりませんし、仮に疑われても困らんでしょう」
どうして私の言葉には、棘が含まれているのだろう。もっと穏やかに返したいのに。
すると課長は、口元に拳をやって、密やかに言った。
「……妬いてる?」
バッと顔を見ると口元が隠れてはいるが、少し、にやついている感じがした。
ムカつく。
「妬いとりませんっ。冗談言わんといてくださいっ」
「そんな全力で否定しなくても……」
「妬いとりませんからっ」
「それは残念」
本当に残念に思っているのかどうかはわからないけれど、課長は大仰に肩を落としてみせた。
そう言って、バッグを持って席を立つ。
「ああ、うん」
課長は言いながら、日本酒をちびちびと飲んでいた。
私は個室を出て、お手洗いに向かう。
うん、フラフラしているようなことはない。あんまり楽しいから、酔いがかなり回っているのかな、と思ってたけれど、足取りはしっかりしているように思う。
いや、足取りを気にするなんて時点で、けっこう酔っているのかもしれない。しっかりしないと。
お手洗いに入って用を足してから、手を洗って鏡に向かう。
自分の頬に手を当てて、覗き込む。
化粧、崩れているかな。口紅は剥げてきているから、塗り直さなくちゃ。
私はバッグの中から化粧ポーチを取り出す。
ポーチの口を開けて、口紅を一度手に取ったけれど、すぐに手放した。
その前にファンデも塗り直そうかな。それならアイラインも手を入れないと。
と、ポーチの中をごそごそと探っているうち、あれ? と思う。
私、ちょっと気合を入れすぎじゃない? なんだか少し、意識しすぎじゃない?
そういうの、変じゃない?
うん、今日は単に送別会なんだし。必死過ぎる、なんて思われたら恥ずかしい。自意識過剰なんだ、きっと。
だって本当に口説こうとしているのかも、なんだか怪しいし。
それにもし、本気で口説かれたとしても、まだ……誰かとどうこうなるっていうのが、少し、怖い気もする。
さんざん考えた挙句、私は口紅だけ引き直して、お手洗いを出た。
◇
個室に戻ると、課長はすぐさま腰を浮かせた。
「二次会、行きたい店があるんだよね?」
「え、あ、はい」
「じゃあそろそろ行こうか。もう二時間過ぎたし」
もうそんなに経ったのか、と少し驚く。個室だからよくわからなかったけれど、それなりに賑やかになってきているから、お客さんも入っているのかもしれない。
それならもう退店の頃合いだろう。
私は課長について、出口のほうに向かう。その間、バッグから財布を取り出した。
奢りのつもりかもしれないけれど、割り勘にしなくちゃ、と思っていたのだけれど。
課長はレジの前を通り過ぎた。
「えっ」
「払っておいたから」
「ええっ」
レジの近くにいた店員さんが、「ありがとうございましたー」とにこやかに私たちを見送る。支払いを済ませたことは間違いないらしい。
私は慌てて店を出て行く課長の背中を追う。
追いついた私は、横に並んで言った。
「あの、半分払います」
「いいよ、送別会だし」
「でも」
「ちゃんと下心はあるから、いいよ」
そう言って笑う。それで私はなにも言えなくなった。
どこまで本気なのだろうか。わからない。
「あの、ごちそうさまでした」
頭を下げながらそう言うと、課長は左手を軽く上げた。
その手をそのまま前に出してゆったりと前を指さす。
「行きたい店って、第二新天地公園の近くなんだよね?」
「あ、はい。真ん前のビルで」
「ふうん」
それで会話は終わって、なんとなく気まずくなった。
下心はある、ってそれをそのまま受け取ったら、つまり私はその誘いに乗っているということなんだろうか。
いやでも、これは送別会だということだし、そこは甘えてもいいんじゃないだろうか。
だったら、二次会は私の行きたい店なのだし、次はちゃんと払わなくちゃ、と思う。
課長の下心に付き合う気がないのなら、そうするべきだ。
けれど、付き合う気、ないのだろうか。
自分の心のことだけれど、よく、わからない。
だって正直なところ、この送別会に誘われるまで、まったくそんな気はなかった。男性として意識したことも、なかった。
こんなに急速に湧き上がってきた話に、どう対応すればいいのかもわかっていない、というのが現状だ。
もし本当に課長が下心があるというのなら、それはいつから?
そう考えているうち、一つ、思いついた。
……まさか、私の不倫話から……?
その可能性に気付いて、ぞっとする。
まさか、他の男に簡単に騙された女だから、簡単にヤれるって思われた?
それならちょっと、つまみ食いしてしまおう、って?
誘ってみたら、二人きりの飲み会に、簡単に乗ってきたって思われてる?
「あー!」
ふいにこちらに掛けられた声に、思考を中断させられて、顔を上げる。
「木佐貫さーん。おはよーございまーす」
夜だというのにおはようと言いながら、真っ赤なスーツの派手めなお姉さんがこちらに手をひらひらと振った。
「ああ、紗耶香ちゃん。今から出勤?」
紗耶香ちゃん?
私は思わず、課長の横顔を見上げて固まってしまった。
課長はそのお姉さんににこやかに対応している。お姉さんは、どこからどう見てもホステスさん、という人だった。
お姉さんはにこにことしながら、課長に話しかけてきた。
「うん、そう。どしたん、可愛い子連れてからー」
「ちょっとね」
可愛い子、は状況を考えれば私のことなのだろうけれど、とりあえず女連れには皆にそう言っているという感じがひしひしとした。
「うち、来るん?」
「今日はちょっと。また今度」
「なんだあ。ほいじゃあまた今度ね。待っとるけえね」
そう言って、また手を振りながら立ち去っていく。
課長も軽く手を振り返していた。
……なんだか、ずいぶん気安い間柄、という感じがする。
「……『夜の蝶』のお知り合い、多いいんですか」
「えっ? 多くはないよ。紗耶香ちゃんは部長がよく行く店の子」
私の言葉に、焦ったように課長が返す。まるで弁解を聞いているみたいだ。
「へえ」
紗耶香ちゃん、か。親し気に。
私に下心があるって言ったくせに。なんだかむかむかする。
いや、むかむかするのはお門違いというものか。課長と私は付き合っているわけでもなんでもないのだし。
「いや、本当に。単なる店の子だから」
さらに重ねられた弁解に、私は言った。
「別に疑っとりませんし、仮に疑われても困らんでしょう」
どうして私の言葉には、棘が含まれているのだろう。もっと穏やかに返したいのに。
すると課長は、口元に拳をやって、密やかに言った。
「……妬いてる?」
バッと顔を見ると口元が隠れてはいるが、少し、にやついている感じがした。
ムカつく。
「妬いとりませんっ。冗談言わんといてくださいっ」
「そんな全力で否定しなくても……」
「妬いとりませんからっ」
「それは残念」
本当に残念に思っているのかどうかはわからないけれど、課長は大仰に肩を落としてみせた。