私がジョッキの半分まで飲んだところで、課長はすべて飲み干して、店員さんを呼んでいた。
スーツの前は開けて、ネクタイも少し緩めている。お酒が少し入って、くつろいできた様子だ。
課長は私のジョッキを指差しながら、言った。
「遠慮してる?」
「しとりませんよ」
「ならいいけど」
ほどなく二杯目のビールが運ばれてきて、課長はそれに口をつける。
特に会社の話題をすることもない。
けれど、話題が尽きるようなこともなくて。
私は今まで、課長がこんな風に話がしやすい人だったとは知らなかった。
「課長は、大学から広島だって言うちゃったですよね」
「うん」
その頃には、お互い、かなり口の滑りがよくなっていたように思う。
「なんで地元に帰らんかったんです?」
「ああ、それは、怒らないで聞いてくれよ」
「怒るようなことなんですか」
「まあ、『広島焼き』に怒ってたし」
そう言って笑う。やっぱり少し、意地悪な人だ。
私が唇を尖らせると、またくつくつと笑う。
そして、ぽつりと話し出した。
「まあ、……友だちとか……恩師とか、こっちにできたから、というのもあるんだけど」
少し言い淀んだのは、『友だちとか』に、彼女、が入っているからではないかな、という気がした。
別に隠さなくったっていいのに、と思う。
課長は続ける。
「俺はね、広島のコンパクトなところが気に入っているんだ」
「コンパクト……」
「うん。なんというかね、大都会でもなく田舎でもない、そういう中途半端さが好きなんだよね」
「はあ……」
中途半端。確かにそれは、人によっては怒る言葉なのかもしれない。
けれど私も、広島のそういう中途半端さが好きだ、というのはわかる。
「コンパクトだから、なんでもあるんだ。こういう繁華街やオフィス街や商店街がぎゅっと詰まっていて、歩いて行きたいところにいける。店が少ないわけじゃなくて、全国的に有名な店舗もきちんと揃ってる」
私は課長の話に、うんうん、とうなずいて同意する。
それに安心したように、課長はさらに続けた。
「それに、ちょっと郊外に行けば、大型店が並んでいる。車で行けるところにスキー場もあってゴルフ場もあって海水浴場もあって観光地もあって、全部日帰りで行ける」
「なるほど」
「あと、プロスポーツがたくさんあるのがいいよね」
「ああ」
「学生時代は、友だちの車でいろんなところに行ったよ」
そう言って足を崩して、少し過去を懐かしむような、そんな目をしていた。
学生時代。車。となると。
「西は山賊、東は伴天連?」
「そうそう。車の免許を取ったら、まずはそこに行くのがお決まりなんだってね」
伴天連はお化け屋敷のような喫茶店で、山賊は大きな食事処だ。山賊は山口県になるけれど、広島から近い場所にある。私もどちらも行った。
……当時の彼氏に連れられて、だけど。
「彼女と、行っちゃったんですか」
思わず、するりと口からそんな言葉が滑り出た。
少し驚いたように、課長がこちらに振り向く。
それから小さく笑った。
「うん、まあ。行ったこともあるよ」
「その人とは……」
「もうずいぶん前に別れてるけど」
「どうして」
「聞くねえ」
そう言って口の端を上げる。
酔いが回ってきてしまったのだろうか。確かに、突っ込みすぎだ。
警戒、してしまっているのだろうか。
私が最近付き合っていた人には、妻がいたから。最初は気付かなかったから。
「まあ、口説こうって男が彼女持ちかどうかは気になるよね」
軽く、課長はそう言った。本当に軽い口調だった。だから少し、ほっとする。
というか、口説くというのは本気なのだろうか。やっぱりからかわれているのだろうか。
私がいちいち、考えすぎなんだろうか。
私がそう、ぐちゃぐちゃと考えている間に、課長はさらりと言った。
「大学卒業間近に付き合い始めて、五年くらい一緒にいたけど、振られてね」
「振られちゃったんですか」
ここまで聞いてしまったのだから、もういいか、という気分になってさらに突っ込んでみる。
すると課長は、ビールをまた一口飲むと、頬杖をついた。
「その、ちゃった、っていうのも最初は戸惑ったなあ」
「ああ……すみません」
この場合、ちゃった、というのはしてしまった、という意味ではない。敬語のつもりなんだけれど、確かにわかりにくいかもしれない。
「いや、今はもうわかるよ」
課長はひらひらと手を振る。
「振られたのは、まあきっかけは、誕生日を忘れていたからなんだけど」
「ああ」
「それまでもいろいろ、しでかしていたんだろうとは思うよ」
「へえ……」
「元木さんなら、どうする?」
「えっ」
急にこちらに話を振られて、驚いてそんな声が出た。
「どうする? 二年も連続で、誕生日を忘れられていたら」
課長はこちらをじっと見て、私の答えを待っている。課長も酔っているのかな、と思うけれど、あまり顔に出ないのか、よくわからない。
私はその質問に、うーん、と考える。
「五年、付き合っとったんですよね」
「うん」
「じゃったら、三年目の頃には、一ヶ月くらい前から催促しとると思います」
私がそう言うと、課長はしばし動きを止め。
そして、噴き出した。
「あー、そうなんだ。元木さんはそうかあ。一ヶ月ね」
「あの?」
「ごめんごめん、催促されるほうがいいなあ、と思って。そうか、一ヶ月か」
そう言いながら、肩を震わせてくつくつと笑っている。
そんなにツボに入るようなことを言っただろうか。とてもそうは思えないのだけれど。一ヶ月がどうしてそんなに面白いのか。
やっぱり課長も酔っているに違いない。ジョッキは空になりかけている。
「飲み物、どうします?」
「あー、じゃあ日本酒にしようかな。元木さんは?」
私のジョッキも空になっていた。
「私、チューハイにします」
「じゃあ頼もう。食べ物のほうは?」
「そうですねえ。唐揚げとか串とかいっときます?」
「そうだね」
「あっ、ホルモンの天ぷら忘れとりました」
「やっぱりまたご当地メニューだ」
そんな風に盛り上がりながら追加注文をして、また二人で笑い合う。
そうして楽しいまま、時間は過ぎていった。
楽しいお酒なんて、久しぶりだな、と思った。
スーツの前は開けて、ネクタイも少し緩めている。お酒が少し入って、くつろいできた様子だ。
課長は私のジョッキを指差しながら、言った。
「遠慮してる?」
「しとりませんよ」
「ならいいけど」
ほどなく二杯目のビールが運ばれてきて、課長はそれに口をつける。
特に会社の話題をすることもない。
けれど、話題が尽きるようなこともなくて。
私は今まで、課長がこんな風に話がしやすい人だったとは知らなかった。
「課長は、大学から広島だって言うちゃったですよね」
「うん」
その頃には、お互い、かなり口の滑りがよくなっていたように思う。
「なんで地元に帰らんかったんです?」
「ああ、それは、怒らないで聞いてくれよ」
「怒るようなことなんですか」
「まあ、『広島焼き』に怒ってたし」
そう言って笑う。やっぱり少し、意地悪な人だ。
私が唇を尖らせると、またくつくつと笑う。
そして、ぽつりと話し出した。
「まあ、……友だちとか……恩師とか、こっちにできたから、というのもあるんだけど」
少し言い淀んだのは、『友だちとか』に、彼女、が入っているからではないかな、という気がした。
別に隠さなくったっていいのに、と思う。
課長は続ける。
「俺はね、広島のコンパクトなところが気に入っているんだ」
「コンパクト……」
「うん。なんというかね、大都会でもなく田舎でもない、そういう中途半端さが好きなんだよね」
「はあ……」
中途半端。確かにそれは、人によっては怒る言葉なのかもしれない。
けれど私も、広島のそういう中途半端さが好きだ、というのはわかる。
「コンパクトだから、なんでもあるんだ。こういう繁華街やオフィス街や商店街がぎゅっと詰まっていて、歩いて行きたいところにいける。店が少ないわけじゃなくて、全国的に有名な店舗もきちんと揃ってる」
私は課長の話に、うんうん、とうなずいて同意する。
それに安心したように、課長はさらに続けた。
「それに、ちょっと郊外に行けば、大型店が並んでいる。車で行けるところにスキー場もあってゴルフ場もあって海水浴場もあって観光地もあって、全部日帰りで行ける」
「なるほど」
「あと、プロスポーツがたくさんあるのがいいよね」
「ああ」
「学生時代は、友だちの車でいろんなところに行ったよ」
そう言って足を崩して、少し過去を懐かしむような、そんな目をしていた。
学生時代。車。となると。
「西は山賊、東は伴天連?」
「そうそう。車の免許を取ったら、まずはそこに行くのがお決まりなんだってね」
伴天連はお化け屋敷のような喫茶店で、山賊は大きな食事処だ。山賊は山口県になるけれど、広島から近い場所にある。私もどちらも行った。
……当時の彼氏に連れられて、だけど。
「彼女と、行っちゃったんですか」
思わず、するりと口からそんな言葉が滑り出た。
少し驚いたように、課長がこちらに振り向く。
それから小さく笑った。
「うん、まあ。行ったこともあるよ」
「その人とは……」
「もうずいぶん前に別れてるけど」
「どうして」
「聞くねえ」
そう言って口の端を上げる。
酔いが回ってきてしまったのだろうか。確かに、突っ込みすぎだ。
警戒、してしまっているのだろうか。
私が最近付き合っていた人には、妻がいたから。最初は気付かなかったから。
「まあ、口説こうって男が彼女持ちかどうかは気になるよね」
軽く、課長はそう言った。本当に軽い口調だった。だから少し、ほっとする。
というか、口説くというのは本気なのだろうか。やっぱりからかわれているのだろうか。
私がいちいち、考えすぎなんだろうか。
私がそう、ぐちゃぐちゃと考えている間に、課長はさらりと言った。
「大学卒業間近に付き合い始めて、五年くらい一緒にいたけど、振られてね」
「振られちゃったんですか」
ここまで聞いてしまったのだから、もういいか、という気分になってさらに突っ込んでみる。
すると課長は、ビールをまた一口飲むと、頬杖をついた。
「その、ちゃった、っていうのも最初は戸惑ったなあ」
「ああ……すみません」
この場合、ちゃった、というのはしてしまった、という意味ではない。敬語のつもりなんだけれど、確かにわかりにくいかもしれない。
「いや、今はもうわかるよ」
課長はひらひらと手を振る。
「振られたのは、まあきっかけは、誕生日を忘れていたからなんだけど」
「ああ」
「それまでもいろいろ、しでかしていたんだろうとは思うよ」
「へえ……」
「元木さんなら、どうする?」
「えっ」
急にこちらに話を振られて、驚いてそんな声が出た。
「どうする? 二年も連続で、誕生日を忘れられていたら」
課長はこちらをじっと見て、私の答えを待っている。課長も酔っているのかな、と思うけれど、あまり顔に出ないのか、よくわからない。
私はその質問に、うーん、と考える。
「五年、付き合っとったんですよね」
「うん」
「じゃったら、三年目の頃には、一ヶ月くらい前から催促しとると思います」
私がそう言うと、課長はしばし動きを止め。
そして、噴き出した。
「あー、そうなんだ。元木さんはそうかあ。一ヶ月ね」
「あの?」
「ごめんごめん、催促されるほうがいいなあ、と思って。そうか、一ヶ月か」
そう言いながら、肩を震わせてくつくつと笑っている。
そんなにツボに入るようなことを言っただろうか。とてもそうは思えないのだけれど。一ヶ月がどうしてそんなに面白いのか。
やっぱり課長も酔っているに違いない。ジョッキは空になりかけている。
「飲み物、どうします?」
「あー、じゃあ日本酒にしようかな。元木さんは?」
私のジョッキも空になっていた。
「私、チューハイにします」
「じゃあ頼もう。食べ物のほうは?」
「そうですねえ。唐揚げとか串とかいっときます?」
「そうだね」
「あっ、ホルモンの天ぷら忘れとりました」
「やっぱりまたご当地メニューだ」
そんな風に盛り上がりながら追加注文をして、また二人で笑い合う。
そうして楽しいまま、時間は過ぎていった。
楽しいお酒なんて、久しぶりだな、と思った。