結局、通りすがりの居酒屋に入ることになった。
 店員さんに小さな個室に案内され、向かい合って座る。店員さんが近くでひざまずいて、「お先にお飲み物よろしいでしょうか」と言うと、課長がこちらに顔を向けた。

「飲み物、何にする?」
「私は、たちまち(とりあえず)ビールで」
「じゃあ、生ふたつ」
「ありがとうございます」

 注文を聞いた店員さんは、その場を立ち去っていく。
 店員さんがいなくなってから、課長は口の端を上げて言った。

「その、たちまち、も最初はわからなかったなあ。急げってことかと思って」
「ああ、そう言われるとそうですね」

 私は目の前に置いてあったメニューブックを手に取って、パラパラとページをめくる。
 一ページ丸々牡蠣のページがあって、げんなりした。

 課長は私の表情を見ていたのか、小さく笑いながら、自分のメニューブックを繰っている。

「なんでもどうぞ。送別会だし。適当に好きなもの頼んで」

 課長がそう言う。ということは、おごりということだろうか。
 いや、お会計のときに割り勘にしてもらおう。
 課長はもしかしたら、本当は口説くだとかそういう気はまったくなくて、送別会すら開かれない私を哀れに思って、茶化しながら誘ってくれたのかもしれない。
 だとしたら、申し訳ないし。

「じゃあ、好きなもの頼みますね。課長は食べられんものはありますか」
「いや、特にはないな」
「ほいじゃあ」

 私は目に付いたものを挙げていく。

「小いわしのお刺身と、鶏皮の味噌煮と、あっ、穴子の天ぷら」

 そしてメニューブックをくるっと回すと、牡蠣のページを開いて課長の前に差し出した。

「私は食べられんですけど、課長は牡蠣を頼んだらええですよ。カキフライでも生ガキでも」

 課長はしばらく固まって、それからぷっと噴き出した。

「……なんか、可笑しかったですか?」
「いや、広島の人って、広島のものを食べさせたがるよね。ものの見事にご当地メニューばかりだ」
「美味しいですもん。美味しいものは食べさせたいじゃないですか」
「まあね。美味しいよ」
「お待たせしましたー」

 店員さんが生ビールの入ったジョッキとお通しを二つずつ持ってきて、いったん話は中断となった。
 それらを受け取り、さきほど決めた注文品を店員さんに読み上げていく。課長は結局、生ガキを頼んでいた。

 店員さんが立ち去ってから、私たちはジョッキを持って浮かせる。

「じゃあ」
「乾杯」

 軽くジョッキを触れ合わせ、それを飲む。
 なんだかそれで、終わったんだな、という気分になった。
 一口飲んで、ジョッキをいったんコースターの上に戻す。それから、ふう、と一息ついた。

「お疲れ様」

 前からそんな言葉を掛けられて、私は顔を上げる。
 課長はこちらをまっすぐに見て、そして再度、口を開いた。

「お疲れ様。よく、がんばったと思うよ」

 ふいに込み上げてくるものがあって、私はきゅっと唇を結ぶ。
 少し、気を抜いていた。不覚にも、みっともないところを見せてしまいそうになる。
 課長の言葉になにか返したかったけれど、口を開くとなにかが弾けてしまいそうで、私は固まってしまった。

 結局、自分がしでかしたことからも、自分に向けられる視線からも、逃げることを選択した。そのこと自体は、やっぱり、胸を張ってがんばったと言えるようなことではないと思う。

 でも、その決断を下すのは勇気が必要だったし、それまで私に向けられる悪意に耐えることもつらかった。

 そのことに対して労いの言葉を掛けるだなんて、不意打ちだ。

「小いわしの刺身、お持ちしましたー」

 そんな声とともに、個室の扉がガラッと開けられる。課長側が開いたので、彼がそれを受け取った。
 それから、刺身の乗った皿をテーブルの真ん中に置くと、付いてきた小皿に刺身醤油を注いでいる。

「ありがとうございます」

 私がそう言うと、課長は苦笑する。

「料理を置くたびにいちいち礼を言ってたら大変だぞ」
「あ、いえ……」
「無礼講無礼講。といっても、もう上司じゃなくなるけど」

 そう言いながら、刺身醤油の入った小皿をこちらに差し出してくる。

「……でも、ありがとうございます」

 私は小皿を受け取りながら、そう言った。