私がフロアを出たあと、中がしんとしたので、思わず立ち止まった。
 私と一緒にいないほうがいい、と課長には言ったけれど、まさに危惧していた通りになっているのではないか。
 私はもう来なくなるので構わないけれど、いや本当は嫌だけれど、課長はこれからも会社に来るのだから、変な評判が広がらなければいいのに、と思う。

 本当は少し、嬉しかった。
 いつもは行われる送別会が開催されないことで、お前は要らない、と皆に思われたようで悲しかった。
 たった二人だけれど、ちゃんと送別会が行われるのが嬉しかった。
 ……いや、口説きたい、とか言われたけれど。それも本気かどうかわからない。
 とにかく声を掛けてくれたのが嬉しかった。

 しばらく扉の前で立ち止まっていると、ふいに中から「えええええ!」という叫び声にも似た大合唱が聞こえた。

 いったいなにが起こっているのだろう、とハラハラとして耳をそばだてる。
 すると聞こえた。

「どうして部外者が未だにガタガタ言ってるんだ? 何様だ?」

 私は動きを止める。私のことを言っているのに違いない。
 課長の声に、怒気が含まれている。
 怒ってくれている。私のことで。

 スカしている、だなんて言われていて、いつもどこか冷めたような人で。広島弁だらけの会社の中で、課長は異質の存在だった。
 必要以上に迎合しようとはしないけれど、だからといって波風を立てるようなこともない。
 そういう人のはずなのに。

「あれからいったい、何ヶ月経ってると思ってる。そんなに長い間、他人の醜聞が嬉しくて仕方ないか? 人の家庭のことに首を突っ込むのが楽しくて仕方ないのか? まさか正義の執行人のつもりなのか?」

 私が言いたかったことを、言ってくれている。
 後ろめたくて言い返せなかったことを、言ってくれている。

 フロアはしん、となっている。そしてこちらに向かってくる足音が聞こえたかと思うと、扉の向こう側、すぐそこで。

「ぶちはがええ」

 課長の口から広島弁が飛び出した。初めて聞いた。

 私は慌ててドアから離れて、駆け出した。そして角を曲がったところで、軽く息を整えながら立ち止まる。
 けれど、なかなか来ないな、と思っていると。

「ああ? かばちかワリャぁ! ぶちまわすど、こらぁ!」

 こんなに遠くなっているのに、部長の怒号が響き渡って私の耳にまで届いた。どうして部長まで? いったい中でなにが起こっているのだろう。

 私は角から顔を覗かせた。
 課長は廊下に出て、ドアを見つめて口の端を上げている。

 そして少しして小さくため息をつくと、こちらに振り向いた。
 目が合ってしまって、もう隠れることもできずに、私は小さく会釈した。

「ごめん、五分って言ってたのに」

 腕時計を見てそう言いながら、こちらに早足で歩いてくる。

「い、いえ、大丈夫です」

 課長がこちらにたどり着いて、そしてそのまま二人で並んで歩きだす。
 中での騒ぎなどなかったかのように、課長は自然に言った。

「どこか、行きたいところとかある?」
「いえ、特には」
「じゃあ、中央通り側に行こうか。会社のヤツらも愚痴吐きに出るかもしれないから」

 苦笑しながらそんなことを言う。
 いつも会社で使っている居酒屋は、弥生町寄りにある。なるべく遠くにしようということだ。

「ちょっと歩くけど。タクシー使う?」
「いえ、大丈夫です」

 言いながら歩みを進める。
 会社を出て、アスファルトの上を二人で歩く。

 さきほどの社内での騒ぎのことを訊いてみたいが、なんとなく憚られた。
 まあこれからお酒が入るのだし、そのときに話の流れで訊ける雰囲気になったら訊いてみよう。

「なにか、食べたいものとかある?」
「いえ、特には」
「じゃあ適当に、居酒屋に入ろうか。俺、そんなに店は知らないんだけど」
「はい、どこでも大丈夫です」
「どうしようかな」

 ビル群を眺めながら、課長がなにかを考えている。たぶん、今まで行ったことのあるお店を頭の中でリストアップしているのだろう。
 課長の横顔を見上げながら、さっきから私の発言は主体性がないな、とぼんやり考える。
 全部お任せして、全部言わせて。私がもし、ここに行きたい、というお店があれば、すんなり決まっただろうに。
 けれど私も、そんなに店は知らない。

 うーん、と考えていたとき、はた、と思い出した。

「あの、課長」
「うん?」

 私の声に、課長が振り向く。

「私、実は行きたいところがあるんですけど」
「へえ、どこ?」
「第二新天地公園の近くなんですけど、ただ、二次会で使うようなお店で」
「そう。じゃあそこは二次会にして。その近くで店を探そうか」
「ええですか」
「もちろん、いいよ」

 そう言ってにっこりと微笑むから、私はほっと息を吐いた。

 ひとまずそうして、歩く方向は完全に決まったのだった。