最初に元木さんが不倫していたと聞いて思ったことは、意外だな、ということだった。
不倫? この子が? とてもそんな風には見えない。
それまでは、真面目に仕事をするいい子だ、と思っていたくらいだった。
元木さんに対しては、それくらいの認識しかなかった。
部下の一人である女性社員。それ以上でもそれ以下でもない。
けれど急激に、俗な話と結びついた時点から、見る目が変わっていった。
そう、変わっていったのだ。
「エロい」と言って笑う彼らと俺は、何一つ、変わりはしない。人のことを言える立場にない。むしろ、おおっぴらに言える彼らのほうが、まだやましい気持ちがないだけ、マシかもしれない。
俺は、彼女に欲情している。
机に向かっていて上半身を少し前に倒したときに見えるうなじが。席を立とうとするときに見える、制服のタイトスカートから伸びる足が。電話を取るときに伸びる指先が。
急激に、扇情的なものに見え始めていた。
これはもしや、隣の芝生は青く見えるというものではないか。
他の男のものになったというその事実が、急速に俺に彼女を女として意識させたのだ。
とんでもなく自分勝手な話でもあるが、不倫なんかをさせたその男のどこが良かったのかと思うにつけ、それなら俺でもいいじゃないかと、そう思うようになった。
それに、目の前にいる俺にはまったく興味を示さず他の男と付き合ったという事実が、どうしたわけなのか、プライドを傷つけた。
今まで一切、口説いたこともないのに。
女性として意識したこともないのに。
特別な配慮を彼女にしたことすらないのに。
どうして自分はイラついているのだろう。
いくらなんでも自己中心的すぎる。
罪悪感を打ち消すために、俺は彼女に対して優しく接するようになったのだ。
不倫なんて信じていない、と殊更に強調もしたのだ。
大きなお世話どころではない。自分の醜い心を隠すためのカムフラージュだ。
そんなはずはない。自分はそんなに酷い人間ではない。
それならなぜ、あんなに傲慢なことが言えたのだろう。
いや、結果的に上からの物言いになってしまったが、それでも彼女のためを思って言ったはずだ。
俺はそう、自分自身に言い聞かせた。
そうだ、こんな風にこれからも自分の醜い想いを打ち消していこう。
このまま飲まれてはいけない。
そう思った矢先に、退職願の提出だ。
逃げられる、と思った。
俺は低俗な男のまま、彼女に逃げられるのだ。
醜い心を、ついぞ打ち消す機会もないまま。
◇
かいつまんで元木さんへの気持ちを話し終え。
ちらりと横を見ると、あやかママは一本目のビールを飲み干したところだった。
「二本目も貰うねー」
軽い口調でそう言うと、レジ袋をガサガサと鳴らしながら、二本目のビールを取り出し、さっそくプルトップに手を掛けた。
今、とても真剣に心の内を打ち明けていたつもりだったのだが。
「……聞いてます?」
「ん? 聞いとらんように見えるん?」
「割と」
「いやじゃ、聞いとるよ」
小さく笑いながらあやかママは言い、二本目のビールに口を付けた。
そしてまた、プハーッと漫画みたいに息を吐いてから、こちらを向いてにっこりと笑った。
「まあ恋愛なんて、そんなもんかもしれんし」
「恋愛、なんですかね」
「恋の悩みです、って自分で言うたくせに」
にやりと笑ってそんなことを言う。
なるほど、確かに俺の話はちゃんと聞いているらしい。
あやかママは、俺が置いたままにしているビール缶を指差した。
「まあ、あんたも飲みんちゃいや」
「そうですね」
俺は脇に置いてあった自分のビール缶を手に取ると、それを口につけて喉に流し込んだ。
飲まなきゃやっていられない、そんなところか。
あやかママは、自分の頬に人差し指を当て、少し考えるような表情をしてから、言った。
「ええと、お名前、聞いとらんよね」
「そうでしたっけ」
「教えてもらってもええ?」
「木佐貫健太です」
「健太くん。うん、覚えた!」
そう言ってうなずいている。
なんというか、力が抜ける人だ。なんでも言っていいような、どんなことでも受け止めてくれるような、そんな気がする。
だから俺はさらに言葉を連ねた。
「でも、なんというか……下衆ですよね」
「下衆? なんで?」
驚いたようにあやかママは目を見開く。
「いや……恋愛って、そういう……なんというか……その……情欲が先立つというのは……」
口にするのも恥ずかしい。
俺は慌ててまたビールをグビッと飲んだ。
すると隣のあやかママは、くすくすと笑う。
「案外、真面目なんじゃね」
「案外」
真面目には見えないのか、と苦笑する。
するとあやかママは、口の中を潤す程度、少しだけビールを飲んでから言った。
「あのね、ウチ、これでもけっこう友だちがおってね」
「は、はい?」
話がいきなりすっ飛んだ。
俺の情欲の話はどこに行った。
「よう恋愛の相談されるんじゃけど」
しかしあやかママは構わず続ける。まあ、何らかの意図はあるのだろう、と俺はその話に耳を傾けた。
不倫? この子が? とてもそんな風には見えない。
それまでは、真面目に仕事をするいい子だ、と思っていたくらいだった。
元木さんに対しては、それくらいの認識しかなかった。
部下の一人である女性社員。それ以上でもそれ以下でもない。
けれど急激に、俗な話と結びついた時点から、見る目が変わっていった。
そう、変わっていったのだ。
「エロい」と言って笑う彼らと俺は、何一つ、変わりはしない。人のことを言える立場にない。むしろ、おおっぴらに言える彼らのほうが、まだやましい気持ちがないだけ、マシかもしれない。
俺は、彼女に欲情している。
机に向かっていて上半身を少し前に倒したときに見えるうなじが。席を立とうとするときに見える、制服のタイトスカートから伸びる足が。電話を取るときに伸びる指先が。
急激に、扇情的なものに見え始めていた。
これはもしや、隣の芝生は青く見えるというものではないか。
他の男のものになったというその事実が、急速に俺に彼女を女として意識させたのだ。
とんでもなく自分勝手な話でもあるが、不倫なんかをさせたその男のどこが良かったのかと思うにつけ、それなら俺でもいいじゃないかと、そう思うようになった。
それに、目の前にいる俺にはまったく興味を示さず他の男と付き合ったという事実が、どうしたわけなのか、プライドを傷つけた。
今まで一切、口説いたこともないのに。
女性として意識したこともないのに。
特別な配慮を彼女にしたことすらないのに。
どうして自分はイラついているのだろう。
いくらなんでも自己中心的すぎる。
罪悪感を打ち消すために、俺は彼女に対して優しく接するようになったのだ。
不倫なんて信じていない、と殊更に強調もしたのだ。
大きなお世話どころではない。自分の醜い心を隠すためのカムフラージュだ。
そんなはずはない。自分はそんなに酷い人間ではない。
それならなぜ、あんなに傲慢なことが言えたのだろう。
いや、結果的に上からの物言いになってしまったが、それでも彼女のためを思って言ったはずだ。
俺はそう、自分自身に言い聞かせた。
そうだ、こんな風にこれからも自分の醜い想いを打ち消していこう。
このまま飲まれてはいけない。
そう思った矢先に、退職願の提出だ。
逃げられる、と思った。
俺は低俗な男のまま、彼女に逃げられるのだ。
醜い心を、ついぞ打ち消す機会もないまま。
◇
かいつまんで元木さんへの気持ちを話し終え。
ちらりと横を見ると、あやかママは一本目のビールを飲み干したところだった。
「二本目も貰うねー」
軽い口調でそう言うと、レジ袋をガサガサと鳴らしながら、二本目のビールを取り出し、さっそくプルトップに手を掛けた。
今、とても真剣に心の内を打ち明けていたつもりだったのだが。
「……聞いてます?」
「ん? 聞いとらんように見えるん?」
「割と」
「いやじゃ、聞いとるよ」
小さく笑いながらあやかママは言い、二本目のビールに口を付けた。
そしてまた、プハーッと漫画みたいに息を吐いてから、こちらを向いてにっこりと笑った。
「まあ恋愛なんて、そんなもんかもしれんし」
「恋愛、なんですかね」
「恋の悩みです、って自分で言うたくせに」
にやりと笑ってそんなことを言う。
なるほど、確かに俺の話はちゃんと聞いているらしい。
あやかママは、俺が置いたままにしているビール缶を指差した。
「まあ、あんたも飲みんちゃいや」
「そうですね」
俺は脇に置いてあった自分のビール缶を手に取ると、それを口につけて喉に流し込んだ。
飲まなきゃやっていられない、そんなところか。
あやかママは、自分の頬に人差し指を当て、少し考えるような表情をしてから、言った。
「ええと、お名前、聞いとらんよね」
「そうでしたっけ」
「教えてもらってもええ?」
「木佐貫健太です」
「健太くん。うん、覚えた!」
そう言ってうなずいている。
なんというか、力が抜ける人だ。なんでも言っていいような、どんなことでも受け止めてくれるような、そんな気がする。
だから俺はさらに言葉を連ねた。
「でも、なんというか……下衆ですよね」
「下衆? なんで?」
驚いたようにあやかママは目を見開く。
「いや……恋愛って、そういう……なんというか……その……情欲が先立つというのは……」
口にするのも恥ずかしい。
俺は慌ててまたビールをグビッと飲んだ。
すると隣のあやかママは、くすくすと笑う。
「案外、真面目なんじゃね」
「案外」
真面目には見えないのか、と苦笑する。
するとあやかママは、口の中を潤す程度、少しだけビールを飲んでから言った。
「あのね、ウチ、これでもけっこう友だちがおってね」
「は、はい?」
話がいきなりすっ飛んだ。
俺の情欲の話はどこに行った。
「よう恋愛の相談されるんじゃけど」
しかしあやかママは構わず続ける。まあ、何らかの意図はあるのだろう、と俺はその話に耳を傾けた。