それからは、表面上は何事もなかったかのように日々は続いた。
 元木さんがいつもポツンと一人でいること以外は。

 あの一番年上の女性社員には、事が大きくならないようにと部長から説明したらしいが、どうも納得している様子ではなかったらしい。
 俺にも説明があって、それなら相手が既婚者だと気付かなくても仕方ないのかな、とは思った。

 というか、どうでもいい。
 冷たいようだが、正直、そんなに興味が湧く話ではなかったのだ。
 他人の色恋沙汰に首を突っ込むほど野暮ではないし、暇でもない。

「木佐貫課長は、なんかスカしてるんすよねー」

 と以前、言われたことがある。いつまでたっても広島弁にならない喋りもあるのだとは思う。
 けれど、そうして仕事中に人の噂話で盛り上がったりするのがスカしていない、ということなら、それでいい。

 元木さんは、いつも俯いたままだった。
 いくら興味がないとはいえ、その姿を見ていると、なんだかイラついた。
 自分ではっきりと説明すればいい。そして陰湿なイジメのようなことは止めてくれと言えばいい。
 いつもそうやって俯いているから、周りも調子に乗るのだ。やっぱり知っていて不倫したから俯いているのだ、と思われてしまうのだ。

 ある日、元木さんが一人で給湯室にいるところに出くわした俺は、それを口にすることにする。

「元木さん」
「はい」

 俺の声に、彼女は顔を上げた。にこりともせずに、ただ目を瞬かせている。

「今、しんどいよな」

 元木さんは俺の言葉に、またしても目を伏せた。

「いえ……」

 そうは言うが、この状況がつらくないなんてことはないだろう。
 今まで普通に仲良く……はなかったかもしれないが、うまくやってきた人間たちから突如、自分のせいではないことで無視されるのが平気な人間なんていないだろう。

「やましいことなんてないんだから、堂々としていればいい。噂なんてそのうち消える」

 俺の言葉に、元木さんはピクリと肩を震わせ、そして小さくうなずいた。
 わかっているのだろうか、とまたイラついた。
 堂々と背筋を伸ばして凛としていれば、きっと周りの態度も変わる。彼女はそうするべきだ。

 そこまで考えて、あれ、と思う。
 俺はずいぶん傲慢な考え方をしているのではないだろうか。
 いつの間に、こんなに思い上がったのだろうか。
 部下だから、見下しているのだろうか。おどおどしているから、押さえつけようとしているのだろうか。可哀想な人間に、手を差し伸べる自分に酔っているのだろうか。

 いつから俺は、こんな愚かな人間に成り下がった?

「いや、余計なお世話だった」

 こんな俺の言葉程度で急に意識を変えられるくらいなら、最初からそうしているのだろう。
 自分の言葉一つで他人の心を動かせるほど、俺は立派な人間ではない。
 そうするべきだ、などと上から目線で言える立場にない。

「いえ……」

 そうして元木さんはますます俯いてしまう。
 なんだか自分がひどく矮小な人間の気がして、

「とにかく、気にするなよ」

 とだけ言って、その場を足早に去った。

          ◇

 その頃から、なんとなく気が付いたら、元木さんの姿を目で探すようになってしまった。
 特に声を掛けたりするわけではない。
 ただ、平穏無事に過ごしているのを見かけて、ほっとするだけだ。
 いや、それだけではなく、ただ単純に動きを目で追っているだけだったりもする。
 そしてハッとして慌てて目を逸らし、いったいこれは何なんだろう、と自問自答する。
 自分のことながら、訳がわからない。

 そんな中、男性社員の中には単純明快な視線で彼女を見る人がいることを知った。
 女性社員たちが退社したあと、残っていた男性社員たちが喋っていたのだ。

「ワシ、あの話聞いてから、ちぃと見る目変わったわ」
「わかる!」
「なんかエロいんよな」

 そう言って手を叩いて笑っている。
 なるほど、そういう視線か。事が不倫なだけに、そちらに意識が向いたのだろう。
 これは一応、注意しておくべきか。本人がここにいないとはいえ、セクハラだろう。

「お前らな」

 そう言いかけたところでマズいと思ったのか、彼らは肩をすくめて散っていった。
 どうせ陰で、「やっぱスカしてるよなー」などと言うのだろう。

 だがそうした彼らを見て、俺が元木さんをなぜ意識しているのか、わかってしまった。なんてことだろう。

 わかりたくも、なかったのに。