しかしそれがまずかった。
 あっという間に、会社中に元木さんの話は広まった。

 彼女は不倫をしていたらしい。弁護士は相手の配偶者に雇われてやってきた。どうやら元木さんは相手が結婚していたことを知らなかったようだ、と。

 後から聞いたところによると、弁護士は彼女の自宅に内容証明郵便を送っていたらしいのだが、それを彼女は受け取れなかった。家にいなかったのだ。
 弁護士は彼女の一人暮らしの部屋も訪れたが、つかまらなくてやむなく会社のほうに来た、ということらしかった。

 けれど、内容証明郵便が配達されてから弁護士が会社に来るまで一日もかかっていないと聞いた。
 平日の昼間に家にいるわけがない。
 どう考えても、わざとだとしか思えなかった。これはおそらく制裁のつもりではないだろうか。たぶん、相手の奥さんの意思に基づいて、元木さんの会社での評判を地に落としたかったのだ。
 元木さんが不倫だと知らなかった、というのは誤算だったか。

 けれど弁護士は元木さんが何をしたのかを言いふらしたわけではない。弁護士は自分を弁護士と名乗り、元木さんと部長を呼び出しただけだ。そのあとの話し合いはすべて会議室の中で行われた。言いふらしたのは間違いなく、我が社の社員だ。

 あの日、会議室から出てきた部長は、弁護士を見送ったあと、しんとなったフロアに向かって声を張った。
 皆が興味津々、といった顔をして自分を見ているのを見て、悟ったのだと思う。

「ちぃと誤解があったみたいじゃ。なんも問題はなかったけえ、お前らは気にするな。あと、いらんこと言うな」

 その言葉に、皆は一応はうなずいた。けれどこれは収まりはしないのではないか、という予感はした。

 お茶を片付けて出てきたのであろう元木さんは、やはり自分が注目を集めているのに気が付いたのか、足を止めた。
 そしてフロアに向かって頭を下げた。

「お騒がせしました。申し訳ありません」

 皆、それを聞くと小さく頭を下げ、仕事に戻った。部長も元木さんも自分のデスクに戻り、仕事を再開した。
 元木さんは目を伏せて、仕事を黙々とこなし、決して顔を上げようとはしなかった。

 夕方五時になり、仕事を終えた女性社員たちは一斉に席を立つ。そして後からゆっくりと立ち上がった元木さんの腕を掴むと、こっちこっち、と言いながら、更衣室に連れて行った。

 俺たちがいるフロアからは少し離れてはいるが、それでもやはり狭い会社のこと、すべてを聞き取れはしないが、ぽつりぽつりと会話は聞こえる。
 男性陣も気になっているのか聞き耳を立てているので、社内はとても静かで、なおのこと耳に入ってくる。
 部長のほうを見ると、小さくため息をついてはいたが、なにも言わなかった。

「ええー!」

 更衣室からそんな声が聞こえて、フロアに残っていた者が、一斉に顔を上げた。

「婚活パーティ? そんなとこで知り合ったん?」

 元木さんの声は聞こえない。小さな声で喋っているのだろう。
 けれど他の女性たちの声が大きすぎる。

「知らんかったんじゃあ」
「婚活パーティじゃあねえ」
「それじゃあ仕方ないよねえ」

 それでもう、おおよその事情は知れ渡った。

 先に一人、着替えて更衣室から出てきた元木さんは、フロアに向かってぺこりと頭を下げた。

「お疲れさまでした。お先に失礼します」
「ああ、お疲れ」
「お疲れっす」

 そうして足早に彼女は立ち去っていく。
 元木さんがドアを開けて会社を出て行った頃、まだ更衣室から出てこない女性たちの会話が再開された。

「うっそだあ」
「気付かんわけないよねえ」
「ウチ、彼氏が浮気したとき、すぐわかったわ」

 そうして、きゃはは、と笑い声が響く。

「しかも婚活パーティとか!」
「必死すぎん?」
「じゃけえ引っかかるんよね」

 さらに笑い声は大きくなった。
 しかしその笑いを冷めた声が止める。

「ほんまの事情はどうなんか知らんけど、とにかく私は不倫は許せん人じゃし」

 一番年上の女性社員がそう言った。同時に、バン、とロッカーを荒々しく閉める音が大きく響いた。

「そ、そうですよねえ」
「ウチもー」

 どうやら、それで女性たちの方針は固まったらしい。
 部長を見ると、眉間を二本の指でつまんでいた。

 女性たちが更衣室から出てきて、口々に「お疲れ様でしたー」「お先に失礼しまーす」と言いながら、会社を出て行く。
 そして全員が出て行ったところで、今度は男性社員たちが顔を見合わせた。

「うわあ、怖え!」
「女、怖え!」

 わざとらしく二の腕をさすりながら、足をバタバタさせつつ、そんなことを言っている。
 怖い、と言いながら、楽しそうでもあった。

「ワシは、いらんこと言うな、言うたよの?」

 部長が低い声でそう言い、「やっべ」と数人が口にしながら、帰り支度を始める。

「おい、木佐貫」

 呼ばれてそちらに振り向く。

「今日、飲みに付き合わんか」

 やっぱり。
 月末などの忙しいときを除いて、大抵は定時付近で帰れるし、給料もそこそこいいので気に入ってはいるのだが。
 その日は、この会社の嫌なところが凝縮されたような日だった。