「あ、あの」
「はい?」

 私の声に女の子は、小さく首を傾げた。

「ここ……おいくらくらいなんでしょうか」

 なんともあっさりと物事が進んでいくので、ふいに不安になってそう訊いた。
 あやかママの店なら大丈夫、だなんて思ってしまったけれど、一応聞いておこう、覚悟は決めておきたいし、と思ったからだ。

「ああ」

 女の子は小さく笑った。

「うんとね、ホントはあんまり言わんのじゃけど、一見さんじゃし女の人じゃけ相場がわからんよね。だいたい五千円くらいで帰ってもらうことになっとるよ」
「ほうなんですか」

 私がほっと息を吐いて胸に手を当てていると、女の子は笑って、それから作業を再開し始めた。
 どうやら先ほどコースターをまとめていたのは、カウンターの上に並べて干していたものらしく、綺麗に重ねるとカウンターの内側にしまった。それからお菓子を密閉容器に移し替えたり、水の入ったポットをセットしたりと、忙しなく動いている。

 これはどうやら、開店したばかり、もしくは開店する前だったのではないだろうか。
 悪いことをしたな、と思ったけれど、そこで口を挟むのも作業の邪魔かと私はなにも言わずに、ちびちびと水割りを何度も口につけた。
 腕時計を見ると、午後七時を少し過ぎたところだった。きっと夜七時からのお店なのだろう。

 一通り準備は終わったらしく、女の子は私の前に立つ。
 なので私は言った。

「ごめんなさい、(はよ)う来てしもうて」
「ええですよ、実はちょっと遅刻したんです」

 そう言って、ペロリと舌を出して笑う。
 その可愛らしい仕草に、私も小さく笑った。

「あの、お一人で、されとるんですか」

 カウンターの奥の小部屋のようなところのドアが開けっ放しだったので、ちらりと覗いてみたけれど、あやかママらしき人影はなかった。

「いや、ママがおりますよ。今日は同伴じゃけえ少し遅うなっとるだけ。それでちぃと気ぃ抜いて、遅刻したんですよ」
「なるほど」
「内緒ね?」
「はい」

 そうして、二人して笑う。
 そのとき、カラン、とドアベルが鳴った。

「あ、ママ、おはようございます。一見さん、通しましたよ」

 女の子が入り口に向かってそう言った。
 ママ。
 あやかママ。
 私は慌ててドアのほうに振り向く。

「あら、ほうね」

 一人の男の人と入ってきたその女性は、肩に掛けたバッグを降ろしながら、私のほうに視線を移してにっこりと微笑んだ。

「いらっしゃいませー」

 私はそれに小さく会釈する。

 でも。
 違う。
 あやかママじゃない。

 ゆるやかに波打つ茶髪を両サイドから一房ずつだけ垂らして、後ろ髪はまとめてアップにしてバレッタで留めている。
 そして落ち着いた青紫色のヒラヒラした素材のスーツを着ていた。
 化粧は全体的にブラウン系で、派手さはそこまでないものの、華やかさは残している。

 顔立ち自体はなんとなく似ていると言えなくもないような気もするけれど、なにせ両者ともにナチュラルメイクと呼べるものではないので、なんとも言えない。
 けれど見間違いなどではない。あやかママではなかった。

 私の接客をしていた女の子は私の前から、入ってきた男の人のほうに移動していく。

「いらっしゃいませー。今日はどこ行ったん?」
「寿司。回らんところじゃ」
「ええなー。今度、ウチも連れて行ってや」
「ええよ」
「やったあ」

 女の子は、そうごく自然に、ママと一緒に入ってきた男の人の前に立ち、私と同じようにおしぼりを差し出すと、チャームとオードをカウンターに並べていた。

 小部屋にいったん入ったママはすぐにまた出てきて、私の前に立つ。

「いらっしゃいませ。ごめんなさいね、遅れてしもうて」
「あ、いえ」

 そして私の前にあるグラスを取り、横に置かれたボトルからウイスキーを少し注ぐと、近くにあったウォーターポットの上を押して水を追加し、マドラーでかき混ぜる。
 そしてグラスの回りを近くにあったおしぼりで拭くと、私の前のコースターの上に置いた。

「あ、ども」

 私は上目遣いでママのことを見ながら、増えた水割りのグラスを手に取ると、少しだけ、口に含んだ。

「私、ママのかえでです。よろしく」

 名刺をこちらに差し出しながら、そう言う。
 私は慌ててグラスをコースターの上に戻すと両手を差し出した。
 ピンク色の名刺を受け取ると、そこには「江利川かえで」と書いてあった。あやか、とは一文字たりともかぶっていない。

「よ、よろしくお願いします」
「お名刺、あったらいただきたいな」

 少し甘えたような声音で、かえでママは言った。

「あ、ないんです。すみません……」
「ああ、ええんですよ。あったら、ですから」

 ひらひらと手を振りながら、かえでママは苦笑した。

「ほいじゃあ、お名前、教えて欲しいな」
元木(もとき)優美(ゆみ)です」
「ゆみさん。うん、覚えた!」

 明るい声でそんなことを言って口を笑みの形にする。

「この店は、どこで?」

 かえでママは首を傾げてそう問うてきた。

「えと……紹介……というか、いい店だって聞いて……」

 誰から聞いたって言わないといけないのかな、それならたまたま目に付いてって言えば良かったかな、と頭の中でいろいろ考えたけれど、かえでママはそれ以上は訊いてこなかった。

「あらあ、それは嬉しい」

 にっこりと笑って言う。

「最近、一見さんが多いい(多い)ですよねえ」

 向こうのほうにいた女の子が少し声を張り上げてこちらに向かって声を出した。
 すると彼女の前に座る男の人がそれに応える。

「ワシ、ネットの情報サイトいうんか? それに載っとるって聞いたで」
「ええー、ほんま?」
「ほんまじゃ」

 女の子は殊更に眉をひそめて言う。

「口コミとかそういうん?」
「ほうなんじゃないかのう」
「変なこと書かれたらヤじゃなあ」
「ええこと書いとった、いうて聞いたで。ええお店じゃーいうて」
「ほいならええけど。あ、樹里(じゅり)ちゃんが可愛い、って書いとるに決まっとるかー」

 腰に手を当てて胸を反らして女の子は言った。ははは、と男の人が笑う。
 彼女はどうやら、樹里、という名前らしい。
 いやホステスさんだから、本名じゃなくて源氏名なんだろうけれど。

「美しい夜の蝶、樹里ちゃんに、おビールをごちそうして欲しいなー」
「ええで」
「やったあ」

 樹里ちゃんは、カウンターの下にあるのであろう冷蔵庫から、瓶ビールをさっそく取り出していた。