それを見たのか、美代子おばさんは、はあ、とこれ見よがしに大きくため息をついた。
 そしてまた、少し身を乗り出して、密やかな声で言った。

「絵里ちゃん、あんたねえ、そろそろ姉さんに期待するのは止めんさい」
「え……」
「これだけここにおるのに、迎えにも来んって、おかしいと思わんのん?」
「それは……」
「あの人は、自分のことしか考えよらんよ。娘じゃけえ無条件にかわいい、とか思わん人じゃ。義兄さんも同じじゃ。似たもの夫婦じゃね」

 私はその言葉に、呆然としてしまって、なにも言うことができなくなった。
 そうなのかな、と思わないこともなかった。
 けれど私の周りの友だちや大人は、「子どもを愛さない親なんていない」と皆言っていたし、信じていた。
 私もそうであって欲しいと願っていた。

 そして、こんな風に面と向かって私に言う人はいなかった。

「高校の受験失敗は、きっかけにしかすぎんと思う」

 その言葉に、私は膝の上に置いた手を、ぎゅっと握った。

「貧乏になったら余裕がなくなるけえね。素が出てきたんよ」
「素……」
「姉さんはねえ、絵里ちゃんを自分のスペアみたいに思うとるんよ。じゃけえ、高校受験失敗したことが許せんのんよ。自分の失敗みたいに思えるけえ」
「そんなん……」
「ちなみに、姉さんが行った高校、どこなんか知っとる?」
「えっ」

 急に問いかけられて私は顔を上げる。

「知っとるけど……」

 私が落ちた高校と、同ランクの高校だ。
 私の返事を聞くと美代子おばさんは、一つ、うなずいた。

「あそこね、当時はそんなに難しゅうなかったんよ。今でこそランクが上がっとるけど」
「そ、そうなん?」
「絵里ちゃんが落ちた高校、ウチが行った高校でもあるけど、姉さんは受けれんかったんよね。成績がちょっと足りんくて。姉さんはいろいろ言い訳しよったけど。まあ高校なんか、やりたいことがありゃあどこでもええと思うけど、姉さんはそうは思えんかったんじゃろうね」

 嘘だ。そんなこと、知らなかった。
 むしろ、私にはできたのに、という圧力を感じていたというのに。

「絵里ちゃんがあの高校に受かることで、自分の失敗を取り返そうとしとったんじゃないかね。意識的になんか、無意識になんかは知らんけど」

 美代子おばさんは、一つ、大きく息を吐いて続ける。
 
「姉さんは、上手くいかんことは全部、絵里ちゃんが姉さんの思うように生きんかったせいじゃ思いよる。自分のスペアが自分の思い通りに動かんかったせいじゃ思いよる」
「そんなん……」
「姉さんが見よるのは、自分自身なんよ。絵里ちゃんじゃない」
「けど……」
「ウチは姉さんとの付き合いは、絵里ちゃんより長いけえね。わかるんよ」

 確信を持ったその言葉が、私の胸に突き刺さる。
 私はもう、返す言葉を持っていなかった。

 あまりにも、しっくりきた。
 上っ面な、「親は子どもを愛するものだ」などという言葉なんかより、よっぽど。

 ふいに、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。
 なんの前兆もなく流れ出したそれは、どんどんと出てきてテーブルの上にパタパタと落ちていく。

「キツいこと言うようなけどね」

 けれど美代子おばさんは、口を止めはしなかった。
 でもそれは、美代子おばさんの慰めだったのではないかと思う。

「絵里ちゃんは、姉さんから逃げんにゃいけん。姉さんは、絵里ちゃんを愛しとらん。じゃけえその代わり」

 美代子おばさんは腕を伸ばしてきて、俯いて涙を零し続ける私の頭に手を置いた。

「絵里ちゃんは、自分を愛さんといけん」

 やっぱり。美代子おばさんは、「その代わり、ウチが愛してあげる」だなんて気休めは言わない。

「誰も助けてはくれん。血の繋がりなんか幻想じゃ。世の中で唯一、裏切らんのは自分じゃ。自分以外は、血の繋がりがあろうとなかろうと、全員他人じゃ」

 どんどんと容赦なく、現実というものを突き付けてくる。

「だから自分は自分のことをめいっぱい愛さんと。ウチはそうしとる」

 私は涙に濡れた顔を上げる。
 美代子おばさんは微笑んでいた。

「ウチはウチのことが大好きじゃ。ほいで、ウチはそういう自分を気に入っとる。絵里ちゃんもそうしんちゃい」

 親戚から『勘当』された人。
 美代子おばさんも、私と同じようなことがあったのかもしれない。
 もしかしたら見限ったのは、美代子おばさんのほうだったのかもしれない。

 自由で。気難しくて。マイペースを絵に描いたような人で。遠慮なんて全然しなくて。使った食器を洗いもしないし、料理もしないし、家ではだらしなく寝ているばかりで。
 けれど、こういう人になりたいと思った。

 しばらく涙を流し続けたけれど、少し落ち着いてきた頃に、美代子おばさんは通帳を差し出した。

「見てみんちゃい」

 言われてしゃくり上げながら、川本美代子、と書かれた通帳を開く。
 そこには見たことがない数字が印字されていた。驚きのあまりに涙も引っ込んだ。

「いち、じゅう、ひゃく、せん……」

 思わず指をさして数えた。八桁だ。

「仕事ばっかりじゃけえ使うことがないけえね。まあ、絵里ちゃんの学費くらいは払えるいうことよ。凄いじゃろ」
「……美代子おばさん……」

 私はその通帳を抱きしめた。

「いうても、ウチは雇われの身じゃし、こんな時代じゃし、いつ仕事をクビになってもおかしゅうはないけえね。途中で打ち切りしても恨みんさんなよ」

 おどけたように肩をすくめてそう言う。

「うん……」

 自分以外は全員他人、と言い切るこの人が。
 他人のためにここまでしてくれる。

 私は顔を上げて、なんとか笑顔を作って言う。

「ありがとう、美代子おばさん。私、大学行って、卒業して、ええ会社に入って、ほいで楽させてあげるけえね」
「ええわ、そんなん。面倒くさい」

 そう言って、美代子おばさんは眉根を寄せた。
 心の底から面倒くさそうだった。

「あと、そのおばさん、いうの止めてえや。美代ちゃんとか、いろいろあるじゃろ」
「美代ちゃん?」
「そっちんがええわ」

 美代子おばさんは、気に入ったようで、嬉しそうに笑った。

          ◇

 そうは言われても老後は私が見よう、だなんて考えていたのに。
 私が大学四年生、卒業する直前。
 美代子おばさんは、突然逝った。

 くも膜下出血。

 病院に呼び出されたときにはもう、彼女は逝ってしまっていた。
 まだなにも返していないのに。
 私は呆然と立ちすくむだけだった。