「起きろー!」

 ばさりという音と共に肌寒い冷気が背筋を撫でる。一気に視界が明るくなり、俺はもう一度ぎゅっと目を瞑った。頭まですっぽりとかぶっていたはずのブランケットは、ぺたぺたと手を伸ばしてもどこにも見当たらない。

「朝だよ! 起きな!」

 仕方なく薄目を開ければ、眩しい朝日が窓から差し込んでいた。

 ──あれ、俺どうしたんだっけ。

 その光を受けているのはココさんで、俺から剥ぎ取ったブランケットを片手に仁王立ちしている。

「朝ごはん作ったから。はやく顔洗っておいで」

 ああ、そうか。昨日の夜、ココさんの家にきて、泊まったんだ。
 壁にかかった時計に目をやれば、短い針は9という数字を指していた。知らないうちに眠っていたらしい。久しぶりにきちんと寝た気がする。夢も、何も見なかった。

「誰かの家で寝たのなんて、初めてだな……」

 今まで俺は、身内以外の前で眠ったことなんてなかったのだから。
 あっという間に台所へと去り、今は鼻歌を歌いながらフライパンを揺するココさんの後ろ姿を眺める。誰かが自分のために朝ごはんを作ってくれるというのはいつぶりだろうか。
「泊まって」と言った女は何人もいた。もしも俺が誘いにのれば、女たちは甲斐甲斐しく朝ごはんを作ったかもしれない。だけどそれは、様々な見返りを求めてのものだ。
 ココさんは俺と寝るわけでもない。何かを要求するわけでもなく、恋人になりたいと言うわけでもない。ただ寝床を与え、朝ごはんを作ってくれる。そんな彼女の存在がとても不思議で、それでいてやはりどこか現実味がなかった。

 今まで、恋人と呼べるような人がいたことはない。なんとなく関係を持ってとか、利害関係の一致でとか、そういうのはあっても特定の誰かに気持ちを寄せる機会はなかった。そのことに関して不満に思ったことも、不安に感じたこともない。感情なんて邪魔なだけだ。

 のそりと起き上がった俺は、いい匂いのするキッチンへとスリッパを引きずっていく。

「なに作ってんの」

 ココさんの耳の横から彼女の手元を覗くようにすると、ぎゃっと言いながら彼女はすごい勢いで左に飛びのいた。反射神経はいいらしい。

「ちょっと! 近い! やめて! その顔で近寄らないで!!」

 すごい剣幕で言ってくるから、なんだかちょっとむっとしてしまう。なんだよ、俺の顔が好きなくせに。

「やましいことがあるからそんな反応するんじゃん?」
「……は?」

 ちょっと意地悪でもしてやろう。

「俺が寝てる間にキスしたりしたんでしょ?」
「は? 頭大丈夫?」

 うわ、睨み効かせる女ってどうよ? ここは真っ赤になってさ、そんなことするわけないでしょとかって焦るのが女の正解だろ?
 それなのにココさんはその後も俺の意地悪をことごとく無視し続ける。結局、俺の意地悪がネタ切れになった頃には、真っ白な皿に丸いホットケーキが二枚重ねられていた。

「俺のやつ、蜂蜜かけて」
「テーブルに出してあるから自分でどうぞ」
「俺の体、国産アカシア蜂蜜以外受け付けないから」
「残念でした、我が家のはカナダ産です。どうぞ砂糖でも塩でも醤油でもかけて召し上がれ」

 ココさんはダイニングテーブルにお皿を置いて腰を下ろすと、目の前の蜂蜜を自分のホットケーキの上にたっぷりとかける。まさか本当に醤油をかけるわけにはいかない。渋々とその蜂蜜に手を伸ばす。嫌味の一つでも言われるかと思ったけれど、ココさんは何も言わず、マグカップに口をつけるだけだ。
 とろりと黄色く光る蜜を回しかける。甘いにおいにつられるように、胃のあたりがきゅるりと捻られるのが分かった。ホットケーキなんて、食べるのはいつぶりだろう。
 いただきますと手を合わせてから口に運んだホットケーキは、どこか懐かしい味がして、カナダ産蜂蜜は小さい頃に喉が痛いと訴えたときに母が飲ませてくれたシロップと似た味がした。

 うまいなんて、言ってやらない。
 カナダ産蜂蜜なんて、認めるもんか。

 何も言わない俺だったけど、二枚のホットケーキはあっという間に皿から消えた。