ありさは、東京の下町にある中規模の製パン会社に入社した。
 いくつかのチェーン店を持つこの会社は、特に人目を引くブランド商品があるわけではなかったが、従業員寮があるのがありがたい。
 しかも、主力のパンのほか、デニッシュ・ペイストリーと呼ばれるパン菓子やケーキ類も製造販売している。しかし、商品はいずれも旧態依然としており、魅力がなかった。
 「あんなパッとしないところによく行くわね。わたしならもっといいところを紹介してあげられたのに。貼り紙を見て行くなんて」
 圭子はわけがわからない。しかし、ありさは一つの信念を持っていた。
 「小さいところがいいの。そしてあまりうまくいっていないところ」
 「なるほど、あなた、昔からちょっと変わった考え方するとこ、あったもんね。ひょっとして、乗っとろうって思っているんじゃないんでしょうね」
 「とんでもないわ。ただ、そういうところのほうが、わたしのような小さな者のアイデアを聞いてくれるんじゃないかと思うの」
 「そうか、あなた、昔から妙な夢を見ているところあったもの。わたしなら、まず大手町とか赤坂とかにある大手の会社、名の知られているところっていうのが絶対条件ね。それに、若いカッコイイ男がずらっといるところじゃないと我慢できない。だってそうでしょ、東京に出てきていて、デートもしないで、ただ働いて、食べて、寝に帰るだけの毎日だなんて」

 ところが、ありさが勤め始めたその日、すぐ、社長の長男だという若い男性に誘われた。
 麻布にある新しくできたイタリアンレストランに行き、帰りにスポーツカーで帰ってきた話をすると、圭子はのけぞって驚いた。
 「なんて変わったセンスしてるの、そのボンボン。あなたみたいな…」
 「あかぬけない、ポッと出のでしょ」
 「そんなこと言わないよ。う-ん。よく見ると、あなたもそう捨てたものじゃないか。目立たないけど、ヘンな時にヘンによく見えたりする時あるんだから。その鼻の形のせいかな。違うね。目かなあ。あくまでも大きくもなく。でも時々夢見るようにキラキラ光ってることあるよ。何か、気持ちがそのまま出てきているような…」
 「……」
 「とにかく、そのヘアスタイルと洋服、どうにかしてよ。そんな格好でレストランに入るなんて。案内係もがっくりくるよ。皆、その道のプロなんだからね。彼らのテンションを下げないでよ」
 「康之さん、別になにも言ってなかったけど」
 ありさは、社長の息子の康之が、新入りの従業員である自分にただ東京の新しい商売の形を見せたのだとしか思っていない。
 実際、パリのカフェテラスのような一階の地下に、イタリア料理を食べさせるところがあって、イタリア人のシェフやウエイターがきびきびと動き回っている様子は、ありさにはものめずらしかった。
 「デザートまでとらせていただいたので、勉強になったわ」
 「フーン。お勉強かあ、色気ないね、その表現。学校思い出すからやめてよ」
 「色気どころじゃないの、あの会社。売上がどんどん落ちているんだから。だから、少し発想の転換を、と思ってわたしのような若い人を雇うことにしたらしいの」
 「あなた、お助けマンなんだ」
 「…になれればいいけど」

 ありさは、以前から漠然と考えていた、新しい焼き菓子の傾向を研究したり、ファストフード店から高級店までを、堂々と調べたりできるのが嬉しかった。
 今までは、そんなことを研究していると、「それより目の前にぶらさがっていることをやれ」と父に言われるくらいがオチだったから。つまりそれは、結婚相手を見つけることだった。
 若い女性にとって、自分の本当にしたい道を夢見たり、模索したりするのは、結婚生活という大前提の前にはむなしいものなのだろうか。勿論、結婚生活そのものに対しても、ありさは大きな夢を持っていたのだけれども。
 とにかく、以前札幌で進と一緒に本を見ながら話し合っていたことを思い浮かべながら、ありさは、東京でのあらゆる傾向を調べていった。
 給料も少しは上がったし、開発経費も出たので、ちゃんとしたジャケットやワンピースを買う余裕もできた。進のことを思いだして気持ちを乱されることはそれほどなくなった。

 ある程度製品を開発したところで、売上は少しは上向いたが、まだ伸びがはかばかしくない。商売の形態をも変えてみたらどうか、と提案してみよう。今までのようにただ系列店に卸すだけじゃなくて。
 移動車による販売、通信販売、宅配、お菓子クラブ…といろいろ考えたが、ふとその時、矢吹フード・アンド・ビバレージに面接に行ったとき、帰り際に廊下で弁当屋のカートにぶつかりそうになったのを思い出した。
 でも、サンドイッチやハンバーガーの配達なんて、どこのオフィスにも来てるわ、きっと。
 でも、違う形でなら。ひょっとして。

 会社は、パイとチーズケーキの通信販売をすぐとりあげてくれたが、なかなかサンドイッチの宅配までは認めてくれなかった。
 新しい組合せのハンバーガーがなぜダメなの? フィッシュペーストだってパンにはさみやすいのに。ありさの頭には、ホタテやエビを混ぜ込んだ魚のすり身がちらついていた。
 じゃ、ランチタイム以外ならどうかしら。
 はじめて大きな矢吹ビルディングの受付から、ぼんやりと外に出た時のことを思い出す。
 はつらつとした若い女性たちの笑い声。一オクターブ高い声。
 「違うわ。そこのプラザホテル」
 「プラザかあ。上のフランス料理ね。見晴らしがよくていいわよね」
 「ビジネス・ランチョンってわけだ」
 「古い、古い。今じゃパワー・ランチっていうの」
 「はいはい」
 「パワー・ブレックファストなんてものもあるわよ」
 「うんうん…」
 パワー・ブレックファスト。
 これだ、と思った。
 「朝のオフィスに、できたてのクロワッサンやロール、マフィンなどと熱いコーヒーを届けたらどうでしょうか。ワゴンで。みなさん、遠いところから、かなりの時間をかけて通っていらっしゃいますから、朝ごはんなど、しっかり食べることができないんじゃないでしょうか」
 「うん。それはいけるかもしれないな。オフィス街も近いし。あんた、北海道から出てきたばかりだけど、よく都心のいろいろなことが浮かぶんだな」
 社長は感心した。
 「俺があちこち見せてるからだよ」
 康之は得意になっていた。
 「おまえの贅沢癖にも、いいところがあったというわけだ」

 結局、言い出した当のありさが、まず、近くのオフィスへ行くことになった。 
 外国式のメニューだからまず外資系の会社がいいだろうという、単純な発想で、丸の内周辺の外資系の銀行や証券会社をあたってみた。どこのオフィスにも、小さなキッチンがあって、コーヒーマシンやティーメーカーは設置されており、社員食堂の完備しているところまであった。しかし、ランチタイムには、外へ食事に出る人、弁当を買う人などさまざまだ。いつも同じものでは飽きるということだろう。
 これならいける。
 帰り道、ありさの頭には、「パワー・ブレックファスト」「パワー・ランチ」の文字が踊っていた。
 それに、アフタヌーン・ティーのケータリング。遅い午後の脱力感を克服するのよ。東京じゃ、帰宅するのにも時間とエネルギーが要るんだから。でも、冷えたスコーンなんてつまらない。それ以外の形で…。
 例えば、午後五時頃オフィスを出て、子供を迎えに行って、それから夕食の買い物と調理・片付けまでをするというのは、とても大変なことだわ。何とか、働く女性のパワーの源になれるような軽食を考えなくては。
 そうだ。アフタヌーン・ティーをもっと進化させて、パワー・ティーを作り出すのよ。

 ありさは、早速試作品作りにとりかかった。
 このパワー・ティーを味わう人々の幸せな顔を思い浮かべながら。