部屋に戻ったありさは、札幌へ帰る支度をしていた。何のために上京したのか、わからない結果になってしまったが、不思議と、悲しみはなかった。久しぶりに進と話したことで、気分が晴れたのだろう。これからのことは頭になかった。
 「せっかくお金をかけて東京に来たのだから、原宿やディズニーランドで遊んでいったらどう?」
 圭子はすすめたが、そんな気にもなれない。明日の朝、帰ろう。

 ところが、その晩、圭子が資料を持って帰ってきた。
 「矢吹フード・アンド・ビバレージで企画アシスタントを一人募集しているわよ。矢吹グループの会社の一つよ。発足して間もない食品会社だけど、そう規模も大きくないし、あなたの専門も生かせるから。どう? この際、東京で働いてみない?」
 あの同じビルにあると聞いて、ありさの心は少し動いた。
 うちでは、父にも母にも迷惑をかけているし、自立することができれば、わたしの夢想ぐせも直るかもしれない。あのビルならば、進さん、いえ、矢吹義人さんにも、時々会えるかも。
 ようやく、昨日の夜思い出しましたよ。よく来てくれましたね。一緒にイギリスの田舎へ行く話、まだ覚えているかしら。もちろんです。今の仕事が一段落したらいつでも出かけられますよ。僕たちの新婚旅行にちょうどいいですよね。まあ、もうそんな。
 いやだ。また始まったわ。

 矢吹フード・アンド・ビバレージへのエントリー手続きを済ませると、すぐに、面接日を指定された。ありさは、圭子のスーツを借りて出かけた。
 応募者は六人ほどいた。三人ずつ名前を呼ばれ、面接室に入った。ありさの他は、いかにも“東京女子”で、派手な最新スーツの女性たちである。
 これはちょっと手強いかも。でも、こうして出かけてきただけでも、いい経験になる。
 室内には、テーブルをはさんでむこう側に、面接官が三人いて、中央の男性が、企画担当課長の岩村と名乗った。
 はじめに、応募の理由や自己紹介など型通りの質疑応答があった。ありさは、北海道でカフェを経営している両親のもとで仕事をしていることを、アピールした。
 その後、岩村課長が変わった質問をはじめた。
 「仮にここに一種類の商品があるとします。え-と、そうだなあ、お茶にでもしましょうか。アジアのある地方に自生しているお茶の葉っぱで、コレステロールをとりのぞくとかなんとか、まあ、ある種の効能はあるが、今まで出回っているお茶などと特に変わりがあるわけではない。味も普通だ。しかし、値段が大変安い。これを大量に輸入してしまった。さて、みなさんなら、どう売りますか」
 高柳レナと名乗ったオレンジ色のスーツの女性は、なんと、
 「わかりません」
とあっけらかんと答えた。
 次の女性は、若い人達は口臭に敏感だから、それを売りにしては、と言った。
 「そんな効能はありません。では、そちらの、北海道から来た三田さんはいかがですか?」
 課長は面倒くさそうに言った。
 ありさは、大きく息を吸い込んだ。こういう大きい規模の商売のことなど、今までは考えたこともなかった。お茶やコーヒーを今日は何杯売るかとか、ケーキをワンホール焼くか、ツーホールにしても大丈夫か、という程度だったから。
 こんな大きなことを、仮の話でもいい、夢を描くように考えられるなんて、何てすてきなことなのかしら。そして、ここには、嫌がらずに聞いてくれる、偉い人達がいる。
 「いろいろアイデアは浮かぶんですけど。まず、わたくしなら、ティー・バーを提案したいと思います」
 「バーですか。夜の飲み物としてはどうかなあ」
 ホステスたちとお茶を飲んでいるシーンを男たちは想像し、同席していた女性たちはクスクスと笑った。見当違いの女が来たわ。恐れるに足らず。楽しませてくれるわね。
 「違います。今では、自動販売機で、あらゆる飲み物が手に入ります。けれども、食事の時に飲む、定番の飲み物がありません」
 「しかし、和食なら日本茶がある。洋食なら、おや、何だろう。ビールかな。水か」
 「それで、お食事の時の飲み物として、そのお茶を提案してはいかがかと」
 「ふーん。この紅茶色した、香りも何もない液体を、ですかね」
 「消化を助けると聞いております、炭酸を入れる、というのはいかがでしょうか。私の住んでおりました札幌の近郊に、昔、養老の滝として知られている滝があり、そこには、ソーダ水が流れているという言い伝えがありました。私も、小さい頃、家族で行ってみようとしましたが、渓流の奥までは行けませんでした。でも、憧れのところとしてまだ心の中に残っています」
 ありさは低い声で語っていたが、ハッと我に返った。
 「すみません。場所柄もわきまえず、プライベートな話をいたしまして…」
 「いや、興味深いお話ですね。確か、うちの田舎にも同じ名前の滝がありました。あちらこちらにあるんですね。で…」
 若い方の社員が言った。ありさは続けた。
 「きれいなお茶の色に、炭酸の泡が揺れるのは、少しわくわくしませんか。視覚的にも」
 「なるほど」
 「コーラ、…ペリエなど、見ているだけでとてもきれいで、わくわくしますので…。この楽しさも大切かなと思います」
 「で…」
 「炭酸を入れた、このスパークリング・ティーを、まず、ビルの広いエントランスの壁に沿って細いスタンドを設置し、無料で差し上げる、というイベントを提案いたします」
 「なるほど。ティー・スタンドねえ」
 「ティー・バーと呼びたいような気がします」
 「ハイカラな感じですねえ」
 「外でランチを買ってきた方に、食事のドリンクとして、この炭酸入りティーを提案します。初めは無料で。評判を見て、自販機にも…。オアシス・ティー・バーという名前にして。都会のオアシスのように、この東京のあちらこちらにあれば、すてきです」
 「オアシス・ティー・バー。スパークリング・ティー。ネーミングもいいじゃないか」
 「スペースもあまりとりませんし」
 ありさは今や夢を見ていた。私のささやかな経験がこんなところで役にたつなんて。
 あの夏の暑い日、本気で、養老の滝にあるという、冷たいソーダ水を探して渓流を上がっていった幼い日。
 「これはあくまでも仮の話でしたが、あなたはなかなかアイデアをお持ちですね。他に何かありますか。お茶以外でもいいですよ」
 ありさは、ほかに、二つの提案をした。小さな子供のための飲み物。それに、北海道産のスケソウダラを使ったフィッシュペーストに関するものであった。
 岩村課長をはじめ、三人の面接官は、身をのりだして、丁寧に聞いてくれた。
 「いやあ、大したもんだ。適性とはおそろしいものです。また、是非いろいろお話を聞きたいものですね。よろしくお願いしますよ」
 三人とも上機嫌であった。
 正式の採用者には数週間以内に通知をくれるということで、応募者はぞろぞろとビルを出た。

 まだランチタイムには少し早かったが、熱弁をふるったせいか、ほっとしたせいか、急に空腹をおぼえたので、ありさは、ビルの地下にあるサンドイッチの店に入った。あまり店内がきれいで、サンドイッチの種類も豊富なので、しばらくはオーダーするのも忘れてきょろきょろしてしまう。
 たったこれだけのスタッフで、どうしこんなにたくさんの種類の注文に応じられるのかしら。
 そのうちに、若い女性たちが、どやどやと入ってきて、店内は満員になった。
 ありさは慌てて、えびと卵のサンドイッチとコーヒーをのせたトレイを受け取り、席を探した。
 もうすでに、二人掛けの席は空いていない。中央の大きなテーブルに、一つだけ空いていた椅子を見つけることができた。
 えびと卵なんてサンドイッチにしたことがなかったわ。しばらく忘れていた仕事への関心が戻ってきたようだ。
 イギリスへ行く前に、この東京でいろいろ研究することがありそう。新婚旅行はその後でもいいでしょ。
 ありさは、いつのまにか、サンドイッチを分解して調べていた。

 大テーブルにはびっしり客がいたが、みな食べるのとおしゃべりに夢中で、ありさの奇妙な行動に驚く人もいない。テーブル上の大きなバラのアレンジが、目かくしにもなってくれていた。
 しかし、客たちの食欲は旺盛だった。特大のサンドイッチにコーヒー、サラダやデザートまでよく食べ、よく話し、よく笑う。
 「ちょっと、うちの課長と恭子、あやしいと思うんだ。この頃、全然目も合わせないし、不自然な行動が目立ち出したわよ」
 「それそれ、わたしもピーンときたわ」
 「やはり、フリフリかなあ。いやあね」
 「奥さんがかわいそう」
 「奥さんだって、昔猛烈なアタックで課長を奪ったっていうじゃない」
 「えっ。その前にも課長結婚してたの?」
 「していないけどさあ。婚約してたって聞いたわ」
 声は時々大きくなったり、小さくなったり、店内の騒音にまじって、わーんと一つになって聞こえたりした。
 「ところであなたの課で、今日面接あったんじゃない」
 「そう、企画アシスタントね。でもたいしたことないわよ。簡単な面接だけだから」
 背中のほうから聞こえてきた声に、ありさは思わず聞き耳を立てた。
 「どうせ採用するコは、前から決まっているんだから」
 「へえ、どんなコ」
 「やたらに派手で、けばいコよ」
 「いやね、そんな女に入ってこられたらチームワーク乱れちゃうと思わない?」
 「だって、しようがないわよ。副社長の姪なんだもの。使えない人だって、いいんでしょ」
 「社長も矢吹専務も、公募主義なのに」
 「だから、副社長は、うわべだけは面接することにしたんでしょ」
 「ずるーい」
 「しようがないでしょ。副社長は、矢吹専務と彼女を結びつけようとしていると思うんだ」
 「えーん。あこがれの人よ。やめて」
 「この間、専務は数ケ月ヨーロッパのどこかに雲隠れしてたでしょ。副社長、一生懸命かくしてたけど、この間、それとなくぽろっと口からでちゃったの」
 「やはり女と?」
 声が一段と低くなる。
 「そう」
 「あんなに仕事には厳しい人がねえ。やさしそうに見えるけど、経営者のかたまりのような人なのに。ところで…」
 ありさは、ふらふらと店を出た。もう何も考えられなかった。
 あの面接がまやかしだって? 圭子の好意にすがって、今まで東京にいさせてもらったのに。どうしてそんな。でも、まだ決まったわけじゃない。正式の通知を待てばいいわ。
 とにかく一度札幌へ戻って、準備をしよう。

 しかし、通知は来なかった。
 ありさは、たまらず人事課に電話をしてみた。「採用の方にはもう通知を致しました」という事務的な返事が返ってきただけだった。
 オフィスにいる圭子に電話をしてみると、調べてから電話がきた。
 「何だかとても優秀な人がいて、その人と競っていたんだけど、だめだったらしいのね。わたし、あなたに悪いことをしちゃって」
 「いいのよ。で、どんな人なのかしら、その優秀な人って」
 「確か、高柳っていったわ。とにかく派手なコよ。いい生活してるから、いい企画も出てくるみたい。わたし、仕事の関係もあるから、もうご挨拶だけはしたけど」
 「……」
 「彼女も加わって、今度新しいプロジェクトが発足したらしいわ。くわしい内容は秘密になっているけど、バーとか、お茶屋だか企画しているらしいのよ。あのコ、お水っぽいからぴったりよ。あの会社、グループの中でただ一つ、うまくいってないので、頭おかしくなったんじゃない。ちょっと、聞いてるの?」

 ありさは、返事をするのも忘れて、スマホの画面をじっと見つめていた。画面の向こうに、大きなビルを、そして巨大な東京を見ている思いだった。
 そんなやり方で、人を利用するのね。
 わたしのような者からまで、アイデアをとるなんて。
 進さん、これがあなたの返事なの?
 あのビルがそんなにせまき門なら、わたしが開けてやるわ。どんなに重くてもかまわない。わたしには、今、小さな力しかない。でも、この気持ちをバネにして見返してやる。わたしには夢という大きな力がある。
 おごらないで、矢吹義人さん。
 汝おごることなかれ。東京よ。
 わたしは、決して諦めない。