「大丈夫? 大手町まで電車に乗って一人で行ける?」
 戸口で、堀田圭子は立ち止まり、ありさのもこもこしたカーディガン・スタイルを見て、溜め息をついていた。
 「何とか」
 「わからなかったら、口があるんだから聞くことね。ところで、東京ではまだ日本語が通じるわよ。じゃ、お先に」
 上京したありさは、大学時代の友人の圭子の部屋に泊まっていた。
 圭子は、大手の食品会社に勤めていて、新製品の開発部に所属している。学生の時から活発であったが、東京でひとり暮らしをするようになってから、びっくりするほど頭の回転の速い、いわゆる“東京女子”になっていた。
 豹柄のスカーフをなびかせて風のように出て行った圭子の部屋をざっと片付けて、ありさも東京の街へ出た。大学卒業後、一度上京したことはあったものの、久しぶりの東京に身震いするほどの緊張をおぼえた。

 駅の表示を見ていても、忙しい群衆が耳のまわりで渦巻いているようで落ち着かない。
 大手町で地下鉄を降りると、大きなビルばかりの中に迷い込んでしまった。誰に尋ねようとしても、みな忙しく、スピーディーで、なかなかつかまらない。
 「まだ日本語が通じる」と言った圭子の言葉の意味がようやくわかった。この数年間で東京はひどく変わってしまっていたのだ。
 ようやく、目指すビルの前に立ったが、あまりにも大きいタワービルなので、間違いではないかと一度引き返した位だった。そのまま、逃げてしまいたかった。
 何という奇妙な話をしに行かなくてはならないんだろう。こんな、わたしとは、およそかけ離れた、非人間的なビルにいる人に。
 ありさは、一瞬ひるんだ。
 でも、わたしと同じ、ただの人間が集まっている、ただの箱じゃないの。
 ありさはあごを上げ、中に入っていった。

 「何時のお約束でございますか」
 素敵なスカーフをきちっと結んだ、モデルのような受付の女性がにこやかに尋ねた。
 「あの、約束はまだしてないんですけど、社長さんにお目にかかりたいんです」
 「社長と申しますと…」
 受付の女性は、いくつかの会社の名を挙げ、そのどれかと聞いた。このビルディング全体は矢吹ホールディングスの所有であるが、他に、いくつか傘下の子会社があるという。
 ありさは、おそるおそる、新聞で見た進に似た人物の名前「矢吹義人」を口にした。すると、彼は、親会社・矢吹ホールディングスの専務であり、その子会社アジア・キャピタルの代表を兼務していると告げられた。
 「専務は大変お忙しい方なので、前もってお約束していただきませんと」
 ありさは、逃げるようにビルを出た。受付の女性の噛んで含めるような声にも刺があった。

 広いロビーに出て、電話で圭子に話すと、
「えっ、アジアなんとかっていう知らない会社だと思っていたけど、親会社の専務だって? とんでもない大財閥じゃない。そういえば、矢吹ホールディングスって呼ばれていたっけ。ありさ、これは駄目よ。ちょっと近づけない人よ。やめたほうがいい。どうとられるかわからないもの。あなたが、傷つくだけよ」
 わたしは、ただ、確かめたいだけなのに。
 ありさは、肩を落として、しばらくビルを眺めていた。もしかしたら、あれは本人ではなくて、兄弟だったのかもしれない。あんなに長く不在にしていても、誰も怪しまなかったなんてあり得ない。落ちこぼれの弟とか…。

 そのうちに、ビルの中から、大勢の人が出てきた。ありさは、もしや、と思って隅から見ていた。しかし、ほとんどが若い女性だった。もうランチタイムだったので、仲間を待ってビルの前近くに立ち止まり、がやがやと談笑し始めた。パンツスーツの女性もいれば、ふんわりスカートをひるがえす女性など、様々だ。
 「秘書課はまだ?」
 「来た、来た。今日は珍しくタイムリーじゃない。矢吹専務は今日いないの?」
 「そうよ。ヒューストンからのお客とランチだから。直行されたのよ」
 「ふ-ん、どこ? オークラかな」
 「違うわ。そこのプラザホテル」
 「プラザかあ。上のフランス料理ね。見晴らしが良くていいわよね」
 「ビジネス・ランチョンってわけだ」
 「古い、古い。今じゃ、パワー・ランチって言うの」
 「はいはい」
 「パワー・ブレックファストなんてのもよくあるわよ」
 「うんうん、やっているね」
 「とにかく世の中常に動いておりますから」
 「はいはい」
 プラザホテルに行けば会える。とにかく会ってみなくては。
 ありさの足は自然に動いていた。

 ようやく見つけたプラザホテルは、皇居のそばのお濠端にたつ、豪華ホテルであった。車寄せに立っている風格あるドアマンや、次々と横付けされるぴかぴかの車に、ありさはおじけづいた。
 誰も見ていない時に、さっと中に入ったが、正面に飾られている大きなロビー花に、圧倒されそうになる。
 ロビーできょろきょろしていると、ホテルマンが寄ってきた。
「お客さま。どなたか、おさがしでいらっしゃいますか」
「はっ、はい。あの雪野 進さんを」
 とっさに出てきた名前であった。

 その時、ドア付近で、数人の外人客と一緒に、進が歩いてくるのが見えた。
 「あっ、来ました。あの方だと思うんですけど」
 ありさは、人違いである場合を考えて、相手の人物を会ったことのない人のように言った。
 「あの方は矢吹さまでいらっしゃいますから、その後ろの方でしょうか。どうぞ、ごゆっくりなさって下さい」
 ホテルマンはにこにこして、立ち去った。
 しかたがないので、ありさは、ドアの近くでまだ談笑している一行に近付いた。
 「あの、……失礼いたします。雪野 進さんでいらっしゃいますね」
 進を見ながら言う。少し横顔を見せていたその男は、話を止めて振り向いた。
 しかし、その目には何の反応も現れなかった。
「違います。残念ですが」
 そして、やさしい笑顔を見せた。まぎれもない進の声であった。
「札幌にいらした方と間違えたようです。申し訳ありません」
 ありさが念のため言うと、
「そうですか。本当に残念ですね」
とやわらかな声が返ってくるだけだった。
 やがて、彼らは行ってしまった。ありさは、涙が出そうになったので、小走りに、化粧室に向かった。化粧室は満員で、華やかな笑いに満ちていた。ありさは待っていられず、エレベーターのほうへと向かった。別のフロアの化粧室をさがすつもりだった。
 誰もいないエレベーターの中で、そっと涙をふきながら、ぼんやりとボタンを押して出たところは、最上階だった。ありさがフロアへ踏み出すと、何と、先ほどの進たちの一行に出会ってしまった。
 あわてたありさが、すぐ、また、エレベーターに戻ろうとすると、
「ハーイ」
と、一行に加わっていた、陽気な外国人の男性が手を上げた。先ほど、ありさが進と話していたので、知り合いと思ったらしい。進も笑顔を向けた。
「たずねていた方は、見つかりましたか」
「はい、おかげさまで」
「それは、よかったですね」
 心からの声に聞こえた。
 話し方まで同じだわ。ありさの胸は痛んだ。やさしさは変わらない。でも、だからといって、あの人がわたしをわかったわけではない。