それからの数ケ月は、ありさにとって失意の日々だった。
 初めのうちは、病院にいったり、警察に呼び出されたりして、何回も同じことを説明しているうちに慌ただしく過ぎていった。しかし結局、ありさ達親子三人が、失踪した進については何もわかってはいないのだということが、わかっただけだった。

 「でも、わたしははっきりと見たんです。あれは、絶対に、故意のひき逃げでした。わざとだったんです。進さんは、きっと、あのダウンジャケットの男に連れていかれたんです。調べて下さい。お願いします」
 ありさは強く言い張ったが、被害者本人のいない今となってはどうしようもなかった。
 ふらっと現れて、ふらっといなくなってしまった身元もわからない男のことなどに、忙しい警察がいつまでもかかわってはいられないのだろう。
  雪野 進という人間は、やはり初めの予感通り、最初から存在していなかったのかもしれない、とまでありさには思えてくるのだった。
 あの人は、わたしへのクリスマスの贈り物だったのだろうか。わたしが、お菓子だのハーブだのにとりつかれたようになっていたから、夢を語る相手として、神様が少しの間この世につかわして下さったのだろうか。
 あのスノードームの小さな世界に、少しの間だけ雪が舞ってくれたように。

 「わたし達も悪かったかもしれないわね。うちの商売の手伝いばかりさせて、年頃の娘らしいことなど、さっぱりさせなかったもの。変な人にひっかかるのも当り前だわ」
 母は、しみじみと言った。
 「変な人じゃないわ。そんな言い方しないで」
 ありさは、自分の夢そのものまで否定されたように思った。もうすぐ、雪が降る頃になれば、進さんは突然戻ってくるわ。以前突然現れたように。素敵なお菓子の本がありましたよ、と言って。僕たちのティールームについての新しいアイデアもいっぱい載っていますよ。
 まあ、これって、まるで外国の田舎のホテルみたいじゃない。イギリスかしら。中の様子はこれだけじゃよくわからないけど。イギリスに行って見るべきですよ、ありささん。そうね、いずれイギリスの田舎にホームステイして、あちらのお菓子やハーブを勉強したいわ。進さん、あなたも一緒に行ってくれるでしょ。もちろんです。あなたは建築を勉強すればいいわ。それが望みだったのでしょ。そうなんです。
 ありさは、涙をおさえた。
 「しばらく、うちの仕事はしなくていいから、少し、修一さんと出かけたりしなさい」
 父も母も、ありさの関心を、他のことにそらせようとした。

 「そうだ。ケーキは外部業者から取り寄せるから、しばらく何もしなくていいぞ。嫁入り前の娘のするようなことをやったらいい。着物でも着て、たまには出かけてみろよ。お茶だとか、お花だとか」
 「もう、してるじゃないの。お店で」
 ありさの心は、ますます沈んだ。
 「わたしのケーキや、お茶のいれ方が気に入らないみたいね。お花だって自己流だけどこの辺の野の花をうまく生かして飾ってるつもりなのに」
 「そうじゃなくて、もっとお金をかけたお稽古ごとをしたらいいということよ」
 「でもわたしは、ケーキが好き。これだけは焼かせて」
 しかし、ありさは、ぼんやりして物思いにふけっていることが多く、かんじんのケーキさえ、こがしてしまう日が続いた。
 お客の注文を間違えてしまったり、挨拶するのを忘れたり、溜め息ばかりついていることが多くなった。客足は少しづつ遠のいていった。
 「お嬢さま修行をするのがいやだったら、嫁に行ったらどうだ。あまり不景気な面(つら)、見せるなよ」
 いつかは言われると思っていても、実際にこの言葉を耳にするのは、ショックだ。
 これで、自分の存在そのものまで否定されたような悲しみだった。

 不景気風が吹いてきたのだろうか、店の賃貸料まで値上げを通告された。
 「今なら修一さんのお父さんの建材会社に雇ってもらえるわ。この際、お勤めするのも悪くないんじゃない。あなたなら、しっかりしているから、経理でもお手伝いさせてもらったとしても大丈夫よ」
 母は見かねて言った。
 「そうだ。給料もうちなんかよりよっぽどいいぞ。このままでは嫁入り道具も買えないようになる」
 「あちらでは、あなたのこと、えらく気に入ってくれてるのよ。きちんとお勤めしてればお嫁さんにだってしてくれるわ」
 この言葉が一番嫌だった。
 泣く代わりに、ありさは、店の棚にインテリアのように置かれているヨーロッパのハーブやお菓子の本を手にとった。
 イギリスの田園。もうあの人とぼんやり歩くことはできないの? 人生って楽しむことのできないものなの? そんな大それた願いじゃないのに。
「進の置いていった本か。それがいけないんだよ、きっと」
「ただの本じゃない。それに、進さんだってとてもいい人よ」
「出ていった男をほめてたって仕様がないじゃないか。あんな風来坊」
「……」
「犯罪者だったかもしれないぞ」
「……」
「もう死んでるかもしれん」
 父は、知らない人のことを言うように言った。

 それから数週間たった日の夕方だった。
 客の入りも途絶えたので、ありさは、目立たないように店の片付けを始めた。
 客の置いていった雑誌や新聞類を袋に入れようとして、妙な記事が目に入った。正確には、最初に目に入ったのは、ぼやけた写真だった。三人ほど並んで写っている。そのうちの左側の男が、一瞬、進に似ているように見えた。
 まさか。ありさは、一度は新聞紙をしまいかけたが、念のため、もう一度、手にとってよく見て、息を飲んだ。やはり、進にそっくりだった。
 記事は、香港発の署名入りの記事で、中国のある製造会社に日本の投資会社が単独で出資、という内容のものだった。そして、その中国の会社は、二年以内に、ニューヨーク証券取引所に上場を果たす見込みであると。
 写真について、説明では、進に似た人物は、日本の投資会社「アジア・キャピタル」の代表者、矢吹義人となっている。ほかの二人は、香港の会計士と中国の会社の代表者であった。

 「ママ、ちょっと見て」
  ありさは、押し殺したような声を出した。大きな声をあげると、このぼやけた写真は、たちどころに煙となって消えてしまいそうだったから。
「キャー、似てる。でもきっと人違いよ」
 母の声は、初めは驚き、後は何か不愉快な感情がこもっているようだった。
「どれどれ」
 父ものぞき込んだ。
「進、おまえ、今度はこんなところに現れたのか」
と、少しおどけた口調で言ってから、
「全然似てないね。別人だ」
と、やけに強く言った。無理やり、自分に、言い聞かせているようだった。
 ありさは、黙って、その新聞を片付けるふりをして、こっそり、ハンドバッグにしまった。そして、夜になって、両親が寝た後で、写真をとりだし、じっと眺めた。

 仕立てのいいスーツを着て、やり手の少壮実業家らしく、さっそうと写っているが、やさしい口もとは、まさに、進そのものだった。目つきだけは、ここにいた時とは違って、鋭く見えた。
 写真はぼけていても、細身の長身をちょっと右にそらせて、右手を上にあげるしぐさは、まぎれもなく、あの、雪の夜の動きそのものだった。
 進さん。本来の居場所に戻ったのね。病院で記憶を取り戻したのね。よかった。
 初めて、ありさの目に涙が流れた。

 もう、札幌での生活は、いえ、わたしという存在そのものも、あなたの記憶から消え去ってしまっているわけね。パパのシャツやジャンパーを着たここでの生活は、あなたにとってあくまでも借り物の日々に過ぎなかった。
 でも、わたしを見たあの目も、あの時だけの借り物だったのかしら。
 ありさは、なかなか寝つかれなかった。
 涙がとめどなく流れた。夢を食べて生きているバクのようだ、といつも言われている自分にお似合いの結末なのだろうか。
 そして夢からさめた哀れなバクは、ようやく現実に目覚め、とぼとぼと自分の穴に戻って行きました。
 しかし、わたしがなぜ泣く必要がある?
 ありさは、暗闇に起き上がった。
 これは愛の終わりなんかじゃないわ。反対に、始まりなのかもしれない。あの愛が、本当に彼にとって仮の姿であったのかどうか、この目で確かめてみよう。
 やってみなくては、何もわからないわ。
 まず、電話で話すこと。電話ならば、二人の間の距離も時間も一度に解決してしまう。

 翌朝、アジア・キャピタルの電話番号を調べ、午前九時になるのを待って、電話をしてみたが、「社長は本社に出向いております。いつ戻るかはこちらではわかりかねます」と言う女性のそっけない声が、ありさの意欲を砕いた。
 「やはり電話しているのか」
 父が心配そうに寄ってきた。
 「社長だと? どうせ社長一人、社員ゼロの小さなアパートの一室だろうよ。東京ってのは、そんなところが多いんだ。おれだって社長だぞ」
 「うちじゃ、社員が二人もいますけどね」
 母が、冗談のように言った。が、目は笑っていなかった。
 「で、どうするの」
 「東京に行ってみます」
 数日後、ありさは東京に発った。