男の名前はわからないので、雪道で車の発進を手伝ってもらったのだからと、雪野 進と呼ぶことになった。

 親子三人は、ここから車で数十分ほどで行ける新しい住宅地に住んでいるので、進には「りら」で寝泊まりしてもらった。
 親子の出勤が少し遅れても、進が朝ざっと準備しておいてくれるので、便利になった。
 ケーキ屋のまわし者どころか、進は、作り方も後片付けも、何もできないようだった。掃除だけはまあまあだったが。

 「君は料理については、口のほうがうまいね」
 しかし、父の皮肉にも進は首をかしげただけだった。
 「まあ、しようがないさ。おれが脱サラしてここを開いた時も、同じようなものだったから。君もどこかの会社に勤めていたんでないかい?」
 「……」
 進は、急に気がついたように、電灯の笠をふきはじめた。

 「あいつ、あまり思い出したくないのかなあ」
 後で、父は、進の居ないときに、独り言のように言った。
 「苦い思い出でもあるんでしょう。ほっときましょうよ」と母。
 「しかし、いつまでもうちに居つかれても困るぞ。人を雇うほどの店じゃないんだ」
 「でも、ケーキ作りなんかとても熱心だし、お給料だってあんなに少ないのに、文句ひとつ言わないで働いてくれてるじゃないの」
 ありさは、今自分の片腕になって働いてくれる進がいなくなったら困ると思った。
 「困る。とても困るわ。進さんのおかげで新しいお菓子の講習会にも行けるし。舌の肥えた試食者にもなってくれているのに」
 「試食なんて、おれたち二人で充分だろうさ。どうせこの辺の者が食うんだ」

 けれども、ありさがやろうとしている新しい方向のケーキ作りにとって、進はなくてはならない人のように思えた。

 洋酒をきかせた凝ったケーキや、クリームでごてごて飾ったケーキなどから、この世界では次の何か別のものにむかっている、とありさは漠然と考えていたからだった。
 それが、何であるのかはまだわからない。この間のような、外見はあまりきれいではないけれど、とてもヘルシーな焼きっぱなしのバナナケーキのようなものかもしれない。それとも…。

 「ありささん。そこの本屋で買ってきました。変わったお菓子がのっていますよ」
 進は乏しい給料をはたいて、よく料理書を見つけてきた。
「何だ、これは。チーズケーキばかりじゃないか。うちじゃもうやってるよ」
 ところが、すべて見たことも作ったこともない外国のチーズケーキが何種類も満載だった。
 他に、ハーブをつかったお菓子とか、英国の紅茶の本とか、中近東やギリシャのデザートの本まであった。
 これじゃ太っちゃうわ。でも、読んでいるだけなら大丈夫。

 ありさは、時に、それらの本を開いて、何時間も空想に耽っていることがあった。
 「ねえ。どれが好きになりそう?」
 まだ試作したわけではないが、まず、手近にいる進に聞いてみる。
「これは、おいしそうですね。これを食べたら幸せになれそうですよ」
「大げさなんでないかい?」
 父は笑ったが、ありさは笑わなかった。

 そうだよね。幸せになりたいから、お菓子を食べるんだよね。コーヒーやお茶も同じ。お酒だってそう。気分をひきたたせるためよ。お菓子なんてなくたって、生きてはいけるもん。
 人を幸せにしたいから、わたしはお菓子を作る。
 こうやって、遠い海の向こうの珍しいお菓子の写真なんて、見ているだけでわくわくしてくる。

 ナツメヤシのプディングなんて、どんな味がするんだろう。どんな時に食べるのかしら。これを食べている時の皆の笑い声までが聞こえて来そうな気がする。
 日中の断食の後、日が沈むと最初に口にするという、ナツメヤシの実やプルーンなどの甘い木の実が浮いたシロップ。どんな気分になるのかしら。冷たくて、甘くて…。
 想像するだけで生き返るようね。

 ありさは、その中から、いくつか選んで休日に作ってみた。ボーイフレンドの修一にもご馳走してみたが、「居酒屋のつまみのほうがいいよ」と言われてしまった。

 「おれも、似たようなもんだ。男はみなそうだよ」
 父は慰めた。

 ところが、進の反応だけは違っていた。
 スコーンを焼いた時には、英国紅茶の本に出ている写真に似たトレイを出してきて、ナプキンをしき、小さなポットとミルク入れ、砂糖入れなどを、セットのようにまとめ、ただの単純な粉とバターのかたまりに過ぎないスコーンというケーキを、見事に、海の向こうの貴婦人のお茶の時間に変身させてしまったのだ。
 「こりゃ仰々しいや」
 父はあきれていた。
「客は面倒くさがるんじゃないかい。目の前に出されたものをろくに見もしないで飲むヤツが多いんだから。第一、ポットで出したんじゃ、おかわりの分の代金がパーになってしまう」

 しかし、ありさは、一度、札幌の中心街にある大きなホテルのコーヒーショップで、そういうセッティングを見たことがあった。
 華麗なシティホテルにしかそういうことがあり得ないのか、と何となく思い込んでいたが、そういうしつらえは、頭にずうっと残っていた。

 お金はかかるかもしれない。でも、わたしはこのようにしたい。両親はいやがるかもしれない。こんなこと、頭を悩ませるほどのことじゃないわ。
 そして、ありさは、その望みを、心の奥深くにしまいこんで、いつしか忘れてしまっていた。

 ところが今、進に、目の前でそれを具体化されて、長い間しまいこんでいた、いろいろなアイデアが、ありさの心にどっと湧き出てきたような気がした。

 「そのセッティング、大好き。わたしの考えていたのとそっくりよ」
 「こりゃ、贅沢なホテルのすることだよ。進、おまえ、ホテルにいたんじゃ…」
 父は、グランドとか、パーク、プラザなど札幌の大きなホテルの名を次々と挙げたが、いずれも、進の表情には何の変化もあらわれなかった。
 「パパ、もういいわよ」
 ありさは、このまま進が何も思い出さないほうがいい、とまで考えることがあった。
 だって、この人は、わたしのひそかな夢の共有者なんだもん。
 今までの生活を思い出してここから居なくなったら、わたしはまた一人になっちゃうわ。だから、このままのほうがいい。

 やがて、雪もとけて遅い春がくると、ありさは、進がいるおかげで車の運転を習いに行き、近くの自然公園や郊外の町程度ならドライブして行けるようになった。
 修一も、時々ドライブや飲み会にさそってくれることがあったが、ありさは、どういうわけか気が進まなくなった。

 ありさは、たまの休みの日に、進を乗せて近くの国道を車で走った。

 六月。北海道は、生まれたばかりのような緑におおわれる。新緑も桜の開花もほぼ同時で、それにライラックの季節が重なる。
 運転免許とりたてのありさとしては、あまり遠くへは行けない。前から、ひそかに気に入っていた場所が近くにあったので、そこへ進を連れていった。

 そこは観光名所でもなく、特に何が素晴らしいというところでもなく、ただの道路際だったが、なぜか、ありさの気に入っているスポットだ。
 高速道路ができたために、あまり車の往来が激しくなくなったこの国道は、やや高台に走っているため、ちょうどそこから下に広がる緑の村のたたずまいが、一目で見渡せた。

 ポプラの並木、草を食べる牛や羊、畑や小さな家。遠くには低い山並みが連なっていた。

 「ありささん。まるで、ここは、ピースバレーですね」
 進は、感動していた。
 「ピースバレー?」
 「こんなきれいな景色を見たことがありません」
 「本当にそう思う?」
 思わずありさは、力を込めて言った。
 「今まで、誰も、ここをいいと言った人はいなかったのよ。平凡すぎるって」
 「ここでティールームを開いたら最高ですよ」
 「実を言うと、わたしも、同じことを考えていたの。初めて見たときから」
 「りんごの木を植えるといいですよ。店の前に。イメージ作りになります」
 「いいわね。秋がきたらアップルパイをだして…。名物になるわ。りんごのチーズケーキに、アップルブラウニー、それからアップルティー、りんごのアイスクリーム…」

 ありさの頭の中には、今まで本などで見たお菓子の名前や写真が次々と浮かび上がってきた。
 「店はガラス張りにして。そうすれば、道路の向かい側の白樺の林がすてきです」
 「ぴったりよ。わたしの考えていたことと…」
 「住まいも、ここがいいですよ。風が強いかもしれないから、古風でがっしりしたれんが造りにして。農家風の感じで。だが、ティールームのほうだけはいかにもあとで付け足しました、という風に、白いペンキの木造で、ガラスをふんだんに使ったサンルームにします」

 進は、ポケットから紙片を取り出し、さらさらとスケッチして見せた。それは、素朴でありながら、なんともいえない霊的な美しさに満ちていたので、ありさはしばらく無言だった。

 「そして、門には“クリームティー”の看板をだす」
 「何、それ?」
 「あれ、何だろう。僕もよくわからない。前に見たことがあるような気がしたんです」
 そして、続ける。
 「そうだ。庭にりんごの木を植えたら、サンルームにはみかんの木の鉢植えを置くといいですよ」
 「えっ、みかんの木の鉢植えなんて、見たことがないわ」
 「昔、ヨーロッパのどこかの寒い国では、オレンジの木専用の温室が流行っていたとか。遠い南の国から運ばれるオレンジは、とても貴重だったのでしょうね」
 「宝石みたいに?」
 「そうらしいですよ」
 そして、進は、少し首をかしげ、空を見上げながら、まるで、流れる雲に書いてある詩句を読んでいるように、つぶやいた。
 「北国で、氷にとざされ眠るりんごの木。その木の見る夢は……」
 「何ですって?」
 「それは、はるか遠く離れた、南の国のみかんの夢なのでしょう」
 「……」
 「そして、灼熱の太陽に焼かれたみかんの木の見る夢は……」
 ありさが続ける。
 「涼しい風に揺れるりんごの夢、でしょ」
 「そのとおりです」
 「誰のフレーズだったかしら」
 「わかりません。こんなフレーズなんてなかったかもしれない。でも、とにかく、そのりんごの木が庭に、そして、みかんの木がサンルームにあればいいんです。互いが夢見る相手を、ガラス越しにいつも見守っていられますからね」
 「たとえ、厚いガラスが、両者を隔てようとも、ね」

 初夏の透明な風に吹かれて、二人は同じ夢を話していた。

 でも、本当に同じ夢なのかしら? ありさは、ふと思った。
 この人は、今、本気で話しているのかしら?
 今着ているパパのお古の色褪せたジャンパーがこの人にぴったりこないように、この人の本心も、どこか離れたところをさまよっているんじゃないのかしら。
 でも、こんなに話が合う人なんて初めて。
 あのスコーンを出したときもそうだった。
 「粉とバター。素朴な味だからこそ、ポットやそのほかのこまごましたセッティングが嬉しいんです」って。
 そうよ。あの時わたしはうまく言えなかったけど、いろいろ華やかなお菓子を食べて、その後で、本当においしいと思うのは、単純な小麦粉とかバターの味だって。これこそが大地の恵みをありがたくいただく、感謝する、ということなんじゃないのかしら。

 「それをポットのやさしい手触りや暖かさに触れながら楽しむわけ。そんな毎日が一番好き」
 思わず、最後は声になって出てしまった。
 「はっ? 何ですか」
 話が急にとんだので、進は戸惑っていた。
 「何でもないの。あなたの本当の名前も知らないけど、自分のことをはっきり思い出したとしても、どこにも行かないでほしいなって。ずっとここにいてくれればって」
 ありさは、夢を見るように言った。
「いいんですか」
「もちろんよ。どうして?」
「だって、マスターも奥さんも…。ご迷惑では」
「そうとしたら、このりんごの木のティールームに来ればいいわ。ここならばわたしのものよ」
「……」
「ね、一緒にやりましょうよ」
「嬉しいです」
 ありさは、思わず自分から進の手をとり、二人は固く抱き合った。

 この人が本当はどんな人であってもいい。愛してしまったんだから。忘れてしまうほどの、どんなつらさが、この人にあったとしても。

 この人とわたしは、とても気が合うわ。それ以外の何が、わたしたちに必要だというの。
 わたしたち二人は、ガラスを隔てていても、互いをいつも見つめ合っているりんごの木とみかんの木よ。このガラスがどんなに厚く、強固なものであったとしても、かまわないわ。
 ありさは、進の顔に浮かぶ魅力的な笑顔を見ていた。
 なんて素敵な人に巡り会えたのかしら。この人と六月にここにいる。幸せだわ。たとえ、この笑顔が穏やかな仮面に過ぎなかったとしても。