翌二十五日は快晴だった。前夜積もった雪が、太陽を受けてきらめいている。

 「りら」の戸口の雪かきを終えて、ありさは、ケーキの準備にとりかかった。

 イヴの晩と違って、クリスマス当日は、あまり客は来ない。
 前夜、生クリームを沢山泡立てて疲れてしまったので、今日は、簡単なバナナケーキを作り始めた。
 これなら、バナナをフォークでさっとつぶして、木べらで材料を混ぜるだけだ。また、残っても、暖めるだけでおいしい。それに、バナナは手に入りやすいから。

 外が明るいぶん、店内は暗く、家族三人、黙々と立ち働いていた。

 その時、ドアをたたく音がして、警官が入ってきた。
「お邪魔しま-す」
 大きな声からして、客としてではないことは、確かだ。
「お-い。おまえも入れよ」
 警官の後から、一人の男が入ってきた。

 昨夜の男だった。すらりとした身体つきからもよくわかった。

 窓からの冬の光を受けて、男の顔が、今日はよく見えた。かなり汚れていて、あちこちに殴られたような傷があるが、顔立ちは端正のようだ。弱っているのか、目に力がなく、どこを見ているのかわからない。
 年齢は、ありさより十才ほど上に見える。

 「ホームレスとも思えませんが、昨夜、ここから五百メートルほど先のバス停のそばで倒れていたんです。通行人の通報で、一応、こちらで保護したんですが」

 男は軽い記憶喪失にでもかかっているのか、名前も住所もわからないという。着ているものから推測できるものもない上、名刺一枚持っていないという。
 ただ、言葉遣いは丁寧だし、頭に受けた傷もたいしたことはないようなので、そのうち記憶も戻ってくるだろう、と警官は言った。

 「ただ一つの手がかりは、ポケットに、こちらのお店のコーヒー券が入っていたことですよ。ひょっとして、こちらによく来ているお客さんなのでは、と思いまして」

 父と母は、交互に昨夜の事情を説明した。
 男は、その間、不安そうに立っていた。
 ありさの昨夜の夢想の主人公が、こんな形でまた姿をあらわそうとは。
 ありさは、キッチンの隅で仕事を続けながら、じっと男を見ていた。

 男の目は相変わらずぼんやりとして、なにも映していないようだったが、とてもおだやかだった。

 自分が誰なのかもわからないのに?
 不安なのにいらいらしていないのは、日頃の強い自己抑制からくるものなのか。

 ひょっとして、牧師さん? ありさの空想は広がる。
 でも、昨夜のあのあざやかな身振りは何なの? 車の運転に関係ある人? ダンスの振付師だったりして…。

 あのおだやかな目が昨夜は的確な判断をしたのね。そして、わたしたち親子を苦境から救い出してくれた。苦境なんて、大げさな言い方かもしれないけれど。

「お邪魔してしまいましたね。まあ、そのうちわかるでしょう。さ、行こうか」
 警官は立ち上がった。

「待って下さい」
 ありさは自分でもびっくりするほどの大声を出していた。
「うちのコーヒー券、使っていらしてください。お二人とも」
「そうだな。どうも、うっかりしてまして」
 父も、あわてて、あたたかい席をすすめた。やがて、コーヒーの香りがただようと、二人は目を細めた。

 バナナケーキの匂いもオーヴンから流れてきた。ありさは、手早く大きく切ったケーキを運んだ。

「やあ、見たことないケーキだな」
 警官はぱくつく。
 男も、ひとくち食べて、にこっと笑った。はじめての笑顔だった。
「大変おいしいです。どうやって作るんですか?」

 ありさは驚いた。
 昨夜以来、はじめて聞く声だった上、男の人で、ケーキの作り方を聞いた人は今までいなかったから。
 「つぶしたバナナをたっぷり入れて焼いてあるんです。色はきれいじゃありませんが」
 「シナモンとラム酒が入っていますね」
 皆は驚いて顔を見合わせた。

 「おい。おまえ、ケーキ屋のまわし者じゃないのか」
 警官はこれで身元確認ができるぞとばかり、嬉しそうだった。
 しかし、男は首をかしげただけだった。
「わからんか。じゃ、しょうがないな。そろそろ行くとするか」
 警官はコーヒーを飲み終わると立ち上がった。
「おい。行こうか」
「お巡りさん、ちょっとお待ち下さい。この人の靴、今日の雪道じゃちょっと無理ですよ。うちに古いスノーブーツがありますから」と、母。

 しかし、ブーツはなかなか見つからなかった。
 結局、警官は先に帰り、男だけが「りら」に残った。

 昼時には少し早かったが、ありさの差し出すサンドイッチを、男はにこにこして食べた。
 「こちらのパンはさくさくして、とてもおいしいですね」
 これは、クリスマスのための特製のパンだった。
 「こちらは、暖かくて、大変気持ちが良いです」
 男の言葉は、一語一語妙にはっきりしていて、丁寧だった。ありさはふと、外国人ではないのかと思った。とすると、どこの国の人かしら。

 ありさがたずねる間もなく、男はうとうとし始めた。かなり疲れているらしい。
 慌てた父が起こそうとするのを遮って、ありさは、そっと備え付けの毛布を掛けた。
 「ここなら、お客さんからもよく見えないわ。目がさめたらなにか思い出すんじゃないかしら。この人には、眠りが必要なのよ。わたしも、スケート場で頭を打ったとき、ひどく眠ったわ。二日間位ずっと眠たかったわ」
 「そうだな。昨日の恩人だ。少し寝かせといてやるとするか。乱暴なやつでもなさそうだし」
 「起きたら凶暴な何とか犯に変貌していたなんてこと、ないでしょうね」

 ところが、母の心配は杞憂に終わった。夕方目覚めた男は、なにも思い出さなかった。

 その時刻、客はすでにほとんどいなかった。
 男は、ありさが運んだホタテとブロッコリのパスタとミルクティーを嬉しそうに平らげると、立ち上がってポケットをさぐり、不思議そうに首をかしげた。

 「いいんですよ」
 「しかしこちらはお店ですから」
 「警察へ戻りますか?」
 「ええ、お金がありませんから」
 そのためにたずねたわけではではなかったが、みな黙っていた。

 母が探し出してきた古いブーツを差し出すと、男は頭を下げて、それをはいた。
 「本当にいろいろありがとうございました」
 そして、キッチンで洗いものをしているありさのところにやってきた。
 「やさしくしていただいて。おいしいものを沢山ありがとうございます」
 「ありふれたものでしたけど」
 「すごい才能をお持ちですね」
 才能だなんて。初めての言葉にありさはとまどった。
 「僕、アールグレイの紅茶、大好きなんです」
 「……」
 「それに、普通はアールグレイに牛乳は入れませんが、僕は入れるのも好きです。特にここの牛乳はとても濃くて、新鮮でした」
 「……」
 「生まれて初めて、こんな素晴らしいおもてなしにあずかりました」
 「あらら、おにいさん、大げさだね」
 父が吹き出した。
 「ま、正気に戻ったらまたいらして下さいよ」
 父がドアを開けると、男はさびしそうに外に出た。
 が、すぐ雪道ですべって転んでしまった。

 「この人、本州の人なんでないかい。歩き方が下手だものなあ」
 「言葉も、この辺の人とはちょっと違うみたいねえ」
 「まだ、歩くのは無理よ。かなり弱ってるわ」
 ありさは、断固とした声で言った。自分でも驚くくらい、強い調子が出てしまった。
 「もう少し回復するまでここにいたらいいわ。パパ、お願い」

 こうして、男はしばらく「りら」を手伝うことになった。