「大学の先輩の北沢さん? おぼえてないんですけど」
 ありさは、工場の奥にある小さな事務所で首をかしげていた。
 「とにかく二時には戻りますからと言いましたから。そろそろ電話くるんじゃないんですか」
 経理の中年の女性の言葉は、微妙に丁寧語に移行しつつあった。
 こんな若いコがどんどんアイデアを出して、またたく間に宅配部門の責任者になってしまうとは、世の中変わったもんだよ。まあ、こちらの給料もおかげで上がったんだからありがたいけどサ。

 電話が鳴って、ありさは、すぐ受話器をとりあげた。
 「北沢と申します。今そばにどなたかおられるんでしょうか」
 電話の向こうの声はきれいで、てきぱきしていた。
 「その通りですが」
 「では、どうぞ簡単にイエスかノーでご返答くださいませ」
 その女性はヘッド・ハンティング会社の者です、と言った。正式の名前はもっと長く、難しかった。
 「直接お目にかからないと、会社名は申し上げられないが」
と前置きした上で、ある有名な大企業が食品開発部門の責任者を求めており、是非あなたにと希望しているので、一度お目にかかってこちらの意向をお伝えしたい、とのことだった。
 「そういうお話でしたら、全然…」
 ありさが、その気持ちはないと言おうとしたところ、
 「イエスかノーでどうぞ」
とかぶさってきた。
 「結構です。ノーです」
 「お目にかかってお話を聞いていただくだけでも。時間はそんなにかかりません」
 「必要ありません」
 「でも、あちらの会社は世界的にも知られておりますし、とても社員を大切にする会社なんです。社員の方たちもとてもプライドを持って、のびのびと働いていらっしゃるんです。なにもお聞きにならないでこのお話をおことわりになられるんですか。もったいないと思います」
 女性の声は、興奮のあまり、涙でもおさえているのか、鼻声になった。しかし、本心からかどうかはわからない。
 ありさは、機械的にノーを言っているだけの自分が、申し訳ないことをしているような気になった。
 「お考え下さいませんか」
 「はい」
 「数日しましたら、またかけさせていただきます」
 電話は切れた。
 「その顔じゃ、寄付ですね」
 経理の女性のしたり顔に、あいまいにうなずきながら、ありさは冷や汗をふいた。
 ヘッド・ハンティング。噂に聞いたことはあったが、自分がその対象になろうとは思わなかった。

 その晩、圭子に話すと、「とうとう来たか」とこともなげに言っただけだった。
 「そんなもの、わたしたちの世界じゃ、日常茶飯事よ」
 「でも、わたしは移るなんて考えてないわ」
 「あなたなら、そうでしょうよ。ボンボンのためならえーんやこーら…」
と後は歌になった。
 「やめて。康之さんとはなんでもないわ」
 「冗談よ。でも、わたしなら、その北沢って人に、会うだけ会ってみるな。どんな会社か、ちょっと知りたい気がするし。一体、この自分に、世間ではどのくらいの評価を与えてくれているのか知りたい気もするの。それに…あー、まさかね…」
 「何が?」
 「まさか、そんなことないと思うけどなあ」
 「……」
 「今の会社、ひょっとしてあなたを手放したいんじゃない」
 「えっ…」
 「従業員を手放したい時にも、よくその手を使うって聞いたことがあるから」
 「わざと、わたしの動きを誘うっていうの?」
 「そう。だから乗らないほうがいいかもしれない。外部の人と接触したじゃないかって、痛くもない腹をさぐられることになるかも」
 「どうしてそんなこと? わたし、なにも悪いことしてないわ。宅配部門だって、どんどん売上を伸ばしてるし」
 「こんなこと、言わなきゃよかった。ま、東京には、あらゆる策謀がうずまいているってことよ。もう、忘れて」

 しかし、忘れることはできなかった。
 黒い小さな疑問はどんどん広がり、最終的には、その女性と会って、とことんはっきりさせたいとまで思うようになった。他方で、自分の価値を客観的に確かめたいという気持ちも否定できなかった。

 職場からかなり離れた新宿の高層ホテルのティールームで、ありさは北沢という女性に会った。声の通り、美しい洗練されたヘッドハンターだった。
 ありさを引き抜きたいと希望している企業とは、何と、あの矢吹フード・アンド・ビバレージであった。
 「お断りします」
 ありさの頭に血がのぼった。
 「素晴らしい条件をお聞きにならないのですか」
 ヘッドハンターは、にこやかに、高額な年棒、ゆとりあるオフィス、フレックスタイムの出勤時間、そして、恵まれた研究開発費等々の諸条件を説明したが、ありさの耳には入らない。
 「とにかくお断りです。あの会社だけは」
 ありさは、身震いした。
 馬鹿にするのもいい加減にして。なんて厚顔なの。ありさは、ふらふらと席を立ち、一礼して外に出た。
 わたしが二度もだまされると思って?