じめじめした六月の午後だった。矢吹義人は、ニューヨーク支店からの電話を切ると、憂鬱そうに、副社長の部屋に電話をかけた。
 最近投資したコンピューターソフトのベンチャー企業がニューヨーク証券取引所上場に失敗したという報告を受けて、その善後策を練ろうと思ったからだった。
 社長である父は、今、病床にある。長い年月、父の片腕だった山崎副社長ならば…。何かヒントの一つや二つ…。しかし、副社長はいなかった。

 このところ、うまくいかないことが多すぎる。自分の能力のせいかもしれないが、何か得体の知れない大きな力に邪魔されているような気がしていた。
 自分にはこんな大それたことをする適性がないのかもしれない。しかし、これ以外何をすればいいのだろう。何万という数に上る従業員、系列企業まで入れるとどのくらいの数になるか見当もつかないが、とにかく大変な数の人々の生活がこの肩にのしかかっているのだから。
 得体の知れない大きな邪魔なんてあるわけはない。すべては、冷厳な数の羅列の結果にすぎないのだ。
 もう一度、財務諸表を検討してみよう。まず、自分が良く読んでおかなくては。
 そうだ。この間わが社に来てもらったばかりの会計士の藤木 亮君にも相談してみよう。
 義人は書類をデスクに広げたが、目の前の数字がふとどこかに飛ぶような錯覚を覚え、頭をかかえた。二、三回、強くまばたきをしてみたが、それはなおらない。ここのところ寝不足で疲れているのかな。運動不足で、肩でもこっているのかもしれない。
 考えてみれば、最近食欲もあまりないし、どこか悪いのかもしれないな。それでなければ、これほどの意欲の喪失に悩まされることなどないはずだ。何か薬でも飲んでみようか。かすかに頭痛もするし、エアコンがきいているのに変な暑苦しさまで感じる。

 秘書を呼んで、頭痛薬を頼んだ。
 「そういう薬はたいてい食後となっていますが…」
 しかし、義人には食欲はなかった。
 「いつ昼食を召し上がったのですか」
 考えてみると、ろくろく昼食など食べてはいなかった。
 「いいんだよ。いつものことだから」
 「じゃ、ちょっとお待ちください」
 秘書はいったん秘書室にもどったが、薬、ペットボトルの水、大き目のマグカップ、それに小ぶりの包みを持って現れた。四角の包みは反透明のラップにおおわれていて、中身はよく見えなかった。
 「わたし用に買ったおやつですけど、さし上げます。時々、帰宅前のエネルギー補給に利用しています。後でちゃんとお支払い頂きますね」
 秘書は出て行った。
 何のことかわからずに、義人はラップを外してみた。
 ちょうど飛行機の機内で出される機内食のようなトレイに、アフタヌーン・ティーの一式が入っていた。
 なあんだ。別に何も食べたくもないんだがな。
 しかし、持ち前の好奇心が頭をもたげて、ふと添えられていたナプキンを手にとって見た。アフタヌーン・ティーのケータリングか。変わってるな。こんな、ささいな…。
 ナプキンには、緑の中に立つ農家のスケッチがプリントされ、「ピースバレー」という文字が目にとびこんできた。
 ピースバレー。いい名前だな。イギリスにでもありそうだ。待てよ。目にしたことがあるような気がする。古びたれんがの農家と、付け足しのような白い木造のティールーム。ナプキンに描かれた絵は単純なものだったが、義人は、そこに暖かい陽光を浴びてまどろむ牛や羊、緑の芽を出したポプラや白樺のそよぎまでも、見ていた。
 スコットランドだったかな。いや、ウエールズのワイ峡谷のあたりかもしれない。
 平和な緑の谷なんて、最近あまり目にしないから。
 短く手順が書いてある。
 「なになに? まず湯を沸かす?」
 短い説明にしたがって、義人は、電気ケトルに水を注ぎ、スイッチを入れた。
 ふと、「家に帰ってきて、まず湯を沸かす。それが人生だ」と何かの本で読んだことがあるような気がした。英国の小説だったか。別の表現だったかもしれない。
 好奇心にかられて、義人は、包みに添えられていた、よい香りの大きめのティーバッグをカップに入れ、ケトルから熱い湯を注いだ。ベルガモットの香りをかぎ、小さなフィンガーサンドイッチを、試しに一つ、つまんでみる。

 特に今何かを食べたいわけではなかったが、丁寧に作られたこのパックの中身を、単なる好奇心から、――いや、少しは救いを求めて――体験してみよう。そうすることによって、今悩ませられているこの憂鬱な気分から、少しの間でも逃れることができれば、と思ったのだ。
 うまい。全粒粉の香ばしいパンの匂いと、ねっとりしたスモークト・サーモンのとりあわせが絶妙だった。その下には、なんと、クレソンとバターだけの白いパンのサンドイッチがあった。クレソンだけをはさんだとは。にくいな。これはやみつきになりそうだ。義人はあっという間にサンドイッチを食べ、少し甘くしたティーを何杯ものんだ。初めはストレートで、二杯目からはミルクを入れて。アールグレイか。いいな。

 脳に糖分がのぼってきたためか、少し頭痛が軽くなってきたようだ。
 その後に、フレッシュフルーツの入った小さな容器をあける。グレープフルーツのセグメントとぶどうが四粒。酸味が爽快だった。
 これは何かな。残った容器には、冴えない茶色のケーキが一切れ。新しいおもちゃを前にした幼児のように、義人はぱくりと口に入れた。バナナの香りが口いっぱいに広がる。なにか、なつかしい匂いだ。その底にかすかにシナモンとラム酒の風味。
 義人は、ふと、二十年も前に亡くなった母を思い出した。小さな村から嫁いできて、東京の大きな家で遠慮しながら暮らしていた母。母が特にケーキ作りに凝っていたわけではない。どうしてだろうか。最近あまり口にすることのないケーキを食べ、コーヒーではなく、ティーを何杯も飲んだせいなのか。

 母のことを久しぶりに思い出したためか、義人は何かふんわりした甘い空気に包まれ、うとうとしてしまった。数分後、目覚めたときには、すっかり頭痛も消え、じめじめしていると感じた空気さえ透明でさわやかなものに変わっていた。
 人間なんて、単純な生き物だな。義人は、頭痛薬を脇に押しやった。
 トレイを片付けようとして、義人はふと「ピースバレー」とプリントされたナプキンを取り上げ、農家を描いたスケッチをしばらく眺めていたが、ややあってデスクの一番上の引出しにしまった。

 秘書を呼び、早速、会計士の藤木 亮に来てくれるよう、依頼した。
 電話が鳴りだし、義人は、再び秒きざみのビジネスの世界に戻っていった。