すっかり片付いてしまった杏子のマンションの部屋で軽く食事をすると、文目と柊はマンションを後にした。
 蓮は両親が県外に行ってしまったので、今日は叔母である杏子の部屋にそのまま泊まるとのことだった。
 外に出てみると、夜はすっかり更けてしまっていた。
 昼間は暑いくらいだったというのに、夜風が涼しい。
 文目と柊はさっき文目が瑞希の幽霊を見た街路樹と植え込みのある道を、並んで歩いた。

 文目は柊の横にある植え込みをチラリと見たが、もう、青い光やランドセルを背負っている瑞希の姿はどこにもない。
 何となく、もう瑞希の幽霊に会うことはないのだろうということはわかった。
 だって、自分は瑞希の幽霊に会って、伝えたいことは伝えてしまったのだから……。

 もう、瑞希に会うことはないのだろうと思うと、やはり淋しい気持ちはある。
(――でも、私には、瑞希の幽霊を探す以外にもやらないといけないことがあるし)
 新潟に来たのは瑞希の幽霊を探すのが目的でもあった。
 でも、瑞希の幽霊を探すという目的がなくなっても、自分にはこの新潟でやらなくてはいけないことがある。
 占いでたくさんの人の悩みの晴らさないといけないし、柊に習っている四柱推命もこれからどんどん勉強しなくてはいけないし……。

(――それに)
 文目は今度は自分の横を歩いている柊の方をチラリと見た。
 すると、さっきからこちらの方を見ていることに気付いたのか、柊が文目の方を向いて来た。
 文目と柊の目が合う。

「――文目ちゃん、どうかした?」
「いえ、何でもないです……。ただ、夜になったら涼しくなって過ごしやすくなったな、と思いまして」
「そうだね。――やっぱり、文目ちゃんが住んでいた高崎と新潟の夏って違う?」
「そうですね、高崎の夏はドライヤーの熱風を浴びているような乾燥した暑さだったんですけど、新潟の夏は高崎よりも湿気がありますよね」
「群馬は海がないけど、この辺りは海が近いから、それもあるんだろうな。  ――高崎が恋しい?」
「えっ?」
 夏の話をしていたのに、突然「高崎が恋しい?」と訊かれ、文目は思わず声を上げてしまった。

「久しぶりに会った時、僕が『新潟の、僕のところで働いてみない』って言ったら、文目ちゃんすぐに『はい』って返事したよね? そんなにすぐに新潟に戻ることにして良かったのかなってずっと思っていて……。
 もし、高崎が恋しくなったら、僕に構わないで帰っても良いんだよってずっと言おうと思ってたんだけど、言いそびれていたんだ」
 文目は柊に笑顔を見せると、ゆっくりと首を横に振った。
「ありがとうございます。でも、高崎が恋しいとかそうことはないです。もちろん、高崎には父親がいますからたまには里帰りさせてもらうかもしれませんが、私、しばらくは里帰りもしなくても良いかなって思ってます。
 新潟でやりたいことがたくさんありますし、それに……」
 文目はここで言葉を切った。
 果たして、次の言葉を言っても良いのだろうか……。

「それに?」
 柊が文目の心中を知らずに笑顔で訊いて来る。
 文目は柊の笑顔を見て、閉じていた口をゆっくりと開いた。
「はい、それに……。私、新潟の柊さんと楠さんのそばでずっと占いの仕事をしていたいんです。私、新潟に戻って来て本当に良かったなって思ってます。
あの時、私に『新潟の、僕のところで働いてみない?』と誘って頂いてありがとうございました。これからもよろしくお願いします」
 文目は柊に深々と頭を下げた。
 柊さんと楠さんのそばでずっと占いの仕事をしていたいだなんて、何だか遠回しに恋の告白をしているようなセリフだな、と文目は最初こそ躊躇(ちゅうちょ)したが、やはり言うことにした。
 父親のあの「これからは自由に生きろ、後悔のないように生きろ」と言う言葉を思い出したからだ。

 今言わないと、瑞希の幽霊に会えた今日言わないと後悔してしまうのではないか、と文目は思ったのだ。

 そうだ、あの時、柊に「新潟の、僕のところで働いてみない?」と言われて新潟に来なければ、瑞希の幽霊に会うことはできなかった。
 もっと言えば、楠に瑞希のことを話していなければ、瑞希の幽霊に会うことはできなかったのかもしれない……。

(――柊さんと楠さんがいたから、瑞希の幽霊に会えたんだ)
 この二人がいなければ、瑞希の幽霊には会えなかった。
 この二人がいなければ、杏子を通して母親のことを考え直すこともなかったし、藤子を通じて自分の高崎時代の失恋を見つめ直すこともなかっただろう。
(――やっぱり、私には柊さんも楠さんも大切な人なんだ)
 柊も楠もどちらも大切だし、どちらともずっと一緒にいたいし、どちらも好きだ……。


 文目は深々と下げていた頭を上げて、柊の方を見上げた。
 柊は相変わらず文目に対して笑顔を見せている。
「柊さんと楠さんのそばでずっと、か……。文目ちゃん、ありがとう、そう言ってくれて」
「あっ、いえ……。こちらこそ、ありがとうございます」
 文目は柊が「ありがとう」と言ってくれたのが嬉しかったが、途端に恥ずかしさがこみ上げて来て思わず柊から視線を逸らして顔を俯かせた。
 顔を下に向けると、街灯のわずかな光に反射して、父親からもらったあのゴールドの腕時計がキラリと光るのが見える。

(――お父さん)
 文目は高崎に残して来た父親に心の中で話しかけた。(――私、お父さんが言った通り、後悔してないから、自由に生きてるから)
 だから、何も心配しなくても良いから。
 父親が高崎に戻って来てから娘の自分が新潟に戻るなんて、まるで行き違いのような形になってしまったし、もしかすると、もう一緒に暮らすことはないのかもしれないけど、心配しなくても良いから……。

 文目が自分のつけている腕時計越しに父親に話しかけていると、ふと自分の視線に入って来るものに気付いた。
 和服の袖口から出ている、柊の手だった。
 柊の手が自分の腕時計をつけている方の手のひらを包み込むように握って来たので、文目は驚いて顔を上げた。
「僕も文目ちゃんに新潟の僕のそばでずっと占いの仕事をしていてもらいたいと思っているよ。文目ちゃんが新潟に来てくれて本当に良かったと思っているし……。楠も、もちろんそう思っているから」

 自分の手のひらを包み込んでいる柊の手が温かい。
 その温かさのせいで自分の顔が赤くなってきているのだろうか、と文目は思った。
(――柊さんだけでなく楠さんもそう思ってくれているなんて)
 何だか遠回しの自分の告白を柊も楠も受け入れてくれたような気がして、文目は嬉しくなった。

「ありがとうございます。――私、柊さんも楠さんもお二人とも好きです。お二人とも私にとって同じくらい大切な方です。これからもよろしくお願いします」
 文目は今度こそ、柊の鳶色(とびいろ)の優しい瞳を見つめながら言った。


 文目の言葉を聞いて、柊は一瞬驚いたような表情をした。
 文目は柊の驚いた表情を見て、やっぱりいきなり告白するのはマズかったのだろうかと思ったが、次の瞬間、柊は優しそうな笑みを浮かべた。

「二人とも、か。そうだったんだ、ありがとう。僕はてっきり……」
「てっきり?」
 てっきりって、なんだろう。
 柊の意外な言葉に、今度は文目が驚いた表情をする番だった。
「僕はてっきり、文目ちゃんは楠が好きなんだろうなって思っていたんだ」
「えっ?」
 ますます意外な言葉に、文目は思わず目を見開いた。

「文目ちゃんが新潟に来てから楠とずっと仲が良かったし、楠も文目ちゃんのことをずっと気にかけていたし……。そのことで楠と前にケンカみたいなことになったことがあってね」
「えっ?」
 文目は(――もしかして)と思った。
 文目は前に楠が「知らねーよ。あいつが……、柊が最近反抗期なんだよ」と言っていたことを思い出した。
(――まさか、あれって、私のことで仲違いしていたってことなの?!)

「小さい頃から何かあると僕はいつも楠に譲ったり楠の代わりに謝ったりしていたけど、そういうのは全然苦じゃなかったんだ。だって、楠は僕のたった一人の兄弟だし、色々と助けられてきたし……。
 楠には本当に感謝しているから、楠のために何かやることはむしろ『恩返しが出来る』って思ってたんだよ。
 でも、文目ちゃんのことに関しては……。文目ちゃんのことだけは、どうしても楠には譲れなかったんだ。文目ちゃんのこと、小学校の時からずっと好きだったし、どうしているのかなってずっと思っていたし、久し振りに再会してすごく嬉しかったから……。
 この間、楠にそのことを全部話したんだよ。楠、最初は驚いていたけど、最後には笑ってた。『お前も変わったな』って。それで、楠と仲直り出来たんだ」
「――」
 文目は驚きに目を見開きながら、柊の話をただ黙って聞いていた。

(――柊さん、小学校の時から私のこと好きでいてくれたんだ)
 そうなると、自分と柊は密かに両想いだったということになるのだろうか……。
 それなのに、事情が事情とは言え誘拐事件のせいで何もお別れも言わずに高崎に逃げるように引っ越してしまったことを、文目は今更ながら悔やんだ。
 柊は自分の知らないところで、ずっと自分のことを気にかけてくれていたのだろう。

(――それに、「お前も変わったな」って)
 何だか最近、柊と楠のお互いへの移り方がおかしいような気がしたのは、そのせいだったのだろうか。
 まさか、柊も杏子のように楠に全部話して「仲直り」していたなんて……。
(――柊さんも変わろうとしていたんだ)
 自分や杏子と同じように、柊も自分の知らないところで変わろうとしていたんだ……。

「そんな……。仕方ないとは言え、小学校の時に何も言わずに引っ越してしまってすみませんでした。それに……」
 文目は不意に目の前が涙でぼやけて来るのを感じた。
 柊がそんな風に思っていたくれたというのに、自分は「柊さんも楠さんもお二人とも好きです。お二人とも私にとって同じくらい大切な方です」と何て曖昧なことを言ってしまったのだろうか。
 柊にも申し訳ないし、楠にも申し訳ない。
(――でも、私にとっては柊さんも楠さんもどちらも同じくらい大切な人だし)
 柊も楠もどちらも好きな人だし、大切な人だし、どちらか一方を選ぶことなんて、今はできない。
 少なくとも、今は選ぶことができない……。


「――文目ちゃん、泣かないで」
 柊は文目の頬を伝った涙を着物の袖口でソッと抑えた。「僕は文目ちゃんが僕も楠も二人とも好きだと言ってくれて嬉しいよ。僕だって、楠のことが好きだし、楠の方が好きだと言うわけじゃないってわかったし……。
 だから、待ってる」
「待ってる?」
「うん、待ってる。文目ちゃんが僕と楠のどちらかを選ぶまで待ってる。楠とも文目ちゃんがどちらを選んでもそれで納得しようって話してあるから。
 ――でも、僕は楠に負けないから。これからもよろしくね、文目ちゃん」
「えっ?!」
 文目が柊の「僕は楠に負けないから」という言葉に驚いて柊の方を見上げると、柊は少しイタズラっぽい笑みを浮かべていた。
 その笑みは何となく楠がいつも見せる笑みに似ているようにも見えた。
(――柊さん、やっぱりちょっと変わった)
 楠が「お前も変わったな」と言っていたのは、本当のことなのだろう。

「はい、あの、こちらこそよろしくお願いします」
 文目が柊に頭を下げて再び顔を上げると、柊はもっと変わっていた。
 いや、この形の良い唇の両端を上げている笑い方は……。
 今、目の前にいるのは楠なのだろう、と文目は思った。
 
 文目はさっきまでの柊との会話を思い出して、自分の顔が赤くなっていくのを感じた。
(――さっきまでの柊さんとの会話、もしかして、楠さんにも聞かれていたのかな?)
「何だよ、お前、そんなにジロジロ見て……」
「いえ、あの……」
 文目は思わず顔を俯かせた。
「だからさ、そういうことだからこれからもよろしくな。――まあ、俺だって、お前は柊の方が好きなんだろうって思ってたんだけど……」
 楠が文目から目を逸らし気味に言うと、文目は「えっ?!」と驚きの声を上げた。
「えっ?! 楠さんも……」
「そうだよ! 俺だって待つけど、柊には絶対に負けないから。――ほら、もうさっさと帰るぞ」
 楠はそう言うと、さりげなく文目の手を取って足早に歩き始めた。

(――温かい)
 さっき柊に包み込むように握られた手も温かかったが、今の楠の手も温かい。
 同じ手のひらのはずなのに、同じように温かいはずのに、どうしてこうも柊と楠の手のひらは違うのだろうか……。
(――やっぱり、今の私は柊さんも楠さんも好きだし、どちらも大切な人だ)
 今は二人のうちどちらかなんて選べないけど、その内に選べるようになる日が来るのだろうか。

(――ゆっくり考えよう)
 柊も楠も「待つ」と言っているし、これからのことはゆっくりと考えよう。
 柊と楠が後悔しないように、自分も後悔しないように、ゆっくりと考えて答えを出そう。
 文目は楠に手を引かれて歩きながら、心の中で呟いた。




【了】