――杏子の占いが終わってから一週間が経った。

 土曜日の午後、いつもの四柱推命の講座が終わった後は土曜日にしては珍しく柊の鑑定が空いていた。
 文目は空いた時間に占いの勉強をしようか、それとも銀葉館の片づけをしようかと考えていた。
 その時、銀葉館の階段の近くに置いてある固定電話が鳴った。
 文目はサンルームで講座の片づけをしていたが、たまたま電話の近くを通りかかったであろう柊が電話に出る声が聞こえた。
 誰だろう? 急な鑑定の依頼か何かだろうか。
 柊が何かをしゃべっているのはわかるが、サンルームからは話の内容までは聞き取れなかった。

「――文目ちゃん」
 電話を終えたらしい柊がサンルームに入って来た。
 文目は柊の表情を見て驚いた。
 何だか、好きなことをやっている子どものように嬉しそうな表情をして、目を輝かせている。
 文目は柊の表情を見て思わず胸をときめかせたが、一体何があったのだろうかと不思議に思った。
 さっきの電話、何かしらの吉報か何かだったのだろうか……。

「柊さん、どうしたんですか? 何か良いことでもあったんですか?」
 文目が訊いてみると、柊は大きく頷いた。
「うん。――文目ちゃん、今日はこれから特に用事はないよね?」
「はい、特には……」
「ちょっとお願いがあるんだ。これから蓮君が来るから、ちょっと蓮君と一緒に行ってもらいたいところがあるんだけど、良いかな?」
「蓮君が、ですか?」
 蓮が来るとは、一体何があったと言うのだろうか。
 文目が不思議そうに訊くと、柊は嬉しそうな笑みを浮かべたまま再び頷いた。


 やがて銀葉館にニコニコ笑顔でやってきた蓮が文目の手を引いて着いた場所は、茶色いあのマンション……。
 そう、杏子が住んでいる、かつて文目の友だちの瑞希が住んでいた、近く取り壊される予定のあのマンションだった。

 以前一度だけ来たことがあるマンションの杏子の部屋の前に来ると、蓮はチャイムを鳴らした。
「――蓮見さん、すみません、本当に来てもらって」
 慌ててドアを開けて来た杏子が小さく頭を下げて来た。
「うん、実は僕が津々地(つつじ)先生に話したら、お姉さんも一緒に手伝ってくれることになったんだ。――ねえ、お姉さん」
「はい、あの……、引っ越しの準備されているということで、良ければお手伝いさせていただければと思いまして。今日は午後から特に急ぎの仕事とかはないんです」

 銀葉館にかかってきた蓮からの電話は、お礼の電話だった。
 蓮は「叔母さんが急に引っ越すことになったんだ、ありがとう」と電話をしてきたのだった。
 ただ、今日明日と引っ越しの準備をするのだが、手伝う予定だった蓮の両親が母方の親戚の葬式で急きょ県外へ行くことになり、手伝えなくなったとのことだった
 それなら僕たちが手伝うよ、と柊が申し出たのだった。

 文目が笑顔で言うと、杏子も笑顔を見せた。
「ありがとうございます。そうしたらお言葉に甘えて……。実は兄と義姉(あね)が急な用事で来れなくなってしまったんです、本当に助かります。
 引っ越し、突然決まったんですよ。母親が病院に戻ってからにしようとも思ったんですけど、良い部屋がちょうど見つかったし、母親も『新しい部屋に住んでから病院に戻りたい』とか言って……」
「夕方になったら、津々地(つつじ)先生も来てくれるって言ってたよ。仕事片付けたらすぐに行くねって」
 蓮が笑顔で言うと、「えっ? 津々地(つつじ)先生も?!」と杏子が驚いた声を上げた。

「蓮、津々地(つつじ)先生も来るって、本当なの?」
 杏子の声に重なるように部屋の奥から声が聞こえて来た。
 文目が声のした方向を見ると、以前偶然会ったことのある杏子の母親が玄関の方に歩いて来るのが見えた。
 以前見た時は如何にも「病人」と言った印象しかなかったが、外泊で外の空気を吸ったせいなのか、顔色も良く声にもハリがあるように聞こえる。
「うん、『良ければ僕も手伝っても良いかな?』って津々地先生言ってた」
「そんな……。銀葉館のお弟子さんがお手伝いに来てくれるだけでもありがたいと言うのに、津々地先生も来てくれるなんて……」
「そうよね、お母さん……」
 杏子はそう言いながら振り返ると、こちらへ歩いて来た母親にさりげなく手を貸した
 
 文目は杏子が母親に手を貸す仕草を見て、ハッとした。

 何て自然な仕草なのだろう。
 そして、杏子と杏子の母親の表情を見て、またハッとした。
 二人の表情も何とも自然で、柔らかい笑顔を見せている。
 以前、偶然二人を見かけた時のあの無表情も悲しそうな表情も、今はどこにもない。
(――もしかして)
 蓮が「叔母さんが引っ越すって言い始めたんだよ!」と銀葉館に連絡を寄こしてきたから(――多分)とは思っていたが……。
 杏子と杏子の母親は、何かしら良い関係性になることができたのだろうか……。


「そんな……、そんなに気になさらないでください。津々地(つつじ)先生も今やってる仕事が終わったら手が空くと言っていたので……」
 文目が慌てて言うと、杏子と杏子の母親は顔を見合わせて笑顔を見せた。
「そうですよね、せっかく津々地先生が来て下さると言っているんですものね」
「はい。――あの、どこからお手伝いすればよろしいですか?」
「ありがとうございます。――どうぞ、散らかってますので、足元に気を付けてください」
 杏子は笑顔で文目の前にスリッパを並べた。




「今日は本当にありがとうございました、とっても助かりました。――後、連絡が遅くなってすみませんでした。実は直接お会いしてお礼を言おうと思っていたんです」
 夕方になりマンションに柊が来ると、引っ越しの準備は一気に片付いて行った。
 夜になる頃には引っ越しの準備はほぼ終わり、文目と杏子は近くのスーパーへ軽食を買いに出かけることにした。
 マンションのドアを閉じると、杏子は文目に申し訳なさそうに切り出して来た。
「いえ、全然です。今日はちょうど午後は鑑定が空いていたので……。でも、桃瀬さん、お母さんと良い雰囲気でお話されていて嬉しかったです。上手く行ったみたいですね」
 文目は引っ越しの準備をしている最中の杏子と杏子の母親のことを思い出した。
 今日の午後、ずっと一緒に過ごしたが、以前に二人を偶然見かけた時に覚えた「違和感」は一切覚えなかった。
 杏子と杏子の母親は昔から仲の良い関係を築いてきたような、そんなどこにでもいるような幸せな親子にしか見えなかった。

「はい、あの、本当にありがとうございました。先週、蓮見さんに占いをしてもらってから、すぐに母親に例の話を切り出したんです。早くしないと、自分の決心が鈍ってしまうんじゃないかと思って、すぐに切り出したんです。
 母親に全部話したんです。小さい頃から私が考えていたことの全てを。私と兄や蓮をどうしてあんなに比べるのか、兄は自由にやっているのにどうして私にはいろいろと言って来るのか、私と一緒にいる時はどうしてあんまり嬉しそうじゃないのか、前に誘拐された瑞希ちゃんのことがどうしてあんなにもお気に入りだったのかとか、もう全部言ったんです。
 言っているうちに、私、涙が出て来て……。最後は自分でも何を言っているのか良く分からなくなっちゃいました。
 私、母親に怒られるか呆れられるか、無視されるかのどれかだろうと思っていたんです。しかも、病気の時に今更何を言うんだって、親不孝な娘だって思われるだろうって……。
 でも、母親、全然怒らなかったんです」
「怒られなかったんですか?」
 文目が訊き返すと、杏子は「はい」と笑顔で頷いた。

「私も驚いたんですけど、母親、ものすごく驚いてました。最初、やっぱり不機嫌そうな表情もしたんですけど、次にものすごく呆気にとられたような驚いた顔をしてたんです。で、これも本当にビックリしたんですけど、段々申し訳なさそうな顔をしてきて、私に『悪かった』って言って来たんです」
「そう、なんですか?」
 文目も驚いた。
 文目も杏子と同じで杏子の母親は怒り出すか呆れるか、不機嫌になってムシをするかのどれかじゃないかと思っていた。
 母親がそうなったとしても、そこで杏子が諦めずに母親にもっと踏み入れば、関係は修繕できるだろうと思っていたのだ。
 でも、杏子の母親は初めは驚いて、最後には謝って来たのだ……。

「母親、こう言ってました。ずっともどかしかったんだって。私、顔はものすごく母親似ですけど、性格は亡くなった父親似で気が弱くて器用じゃないんです。母親にはそれがものすごくもどかしかったんだそうです。
 母親、何でも出来るような人間だから、自分に似ているのに気が弱くて器用じゃない私が心配だったんだって。私の父親、生きている時は仕事の人間関係とかストレスがすごくて悩んでいることが多くて、私もそうなるんじゃないかと思っていたんだそうです。

 だから、私には口うるさく厳しくしてたって言ってました。前に私が反抗して不機嫌になったのも「杏子のために言っているのに何で……」と思ってたかららしいです。私のこと見ていると心配だから、あんまり笑うことも出来なかったって……。兄や蓮は何でもできるから心配ないけど、お前はずっと心配だったって。
 そういうのがずっとあって、私が良い年齢(とし)になっても結婚したり独り立ちできないのは母親の自分がもっとちゃんと育てなかったからかもしれないって思っていたそうです。
 だから、ずっと厳しくしてきたし、母親として上手く育てることができなかったからその負い目もあるし、私にも何であんなに厳しくしたのにしっかりしなかったんだって想いもあるし、それでどう接すれば良いのかわからなくて、ぎこちなく接していたって……。

 私、それ聞いて、泣きながら笑っちゃったんです。私も母親もお互いものすごい勘違いしていたみたい。私、母親が自分のこと心配しているなんてこれっぽっちも考えたことなかったんです。母親は兄や蓮のことや血の繋がってない瑞希ちゃんの方が好きで、私のことはキライなんだろうってずっと思ってたんです。
 もっと早く自分の気持ちをぶつけていたら、もっと早くお互いが勘違いしていることに気付けたのに……。

 お互い勘違いしていたって気付けたら、その後、何か憑き物が落ちたみたいに母親と自然に接することが出来て、母親も私に自然に接してくれるようになって……。
 母親、私と一緒にいても嬉しそうになってくれたから、もう、母親のために瑞希ちゃんの幽霊を探す理由もないなって思って、引っ越しすることを決めたんです。
 本当に蓮見さん、ありがとうございました。蓮見さんがアドバイスしてくれなければ、母親の気持ちにも気づけなかったと思うし、母親と上手く行くことも出来なかったと思います。
 ――あっ、蓮見さん、どうしたんですか?」

 杏子が突然、文目に驚いたような表情を向けた。
(――どうしたって?)
 文目は一瞬、どうして杏子がこんなにも驚いた表情をしたのかわからなかった。
 そして、自分の頬を伝って来る何かに気付いて、ハッとした。
 自分は杏子の話を聞きながら、いつの間にか涙を流していたのだ。

「あっ、私……。すみません」
 文目は慌ててカバンからハンカチを取り出して、頬を伝う涙をぬぐった。「でも、本当に良かったです。桃瀬さん、お母さんとの関係も良くなっただけでなく、前よりもスッキリとしてイキイキしている感じだし……。本当に良かったです」
「蓮見さん、ありがとうございます。そんな、泣いて喜んでくれるなんて……。本当にありがとうございます」
「いえ、そんな……。本当に良かったです」

 文目は確かに杏子の話を聞いて嬉しかった。
 涙が出るほど嬉しかった。 でも、この涙は杏子の話を聞いて嬉しかっただけではないのだ。
 文目は杏子の話を聞きながら、自分と自分の母親とのことを重ね合わせていたのだ。

(――もしかすると、お母さんもそうだったのかな?)
 もう、自分の母親は亡くなってしまっているから、どうして自分と瑞希を比較したり、瑞希と一緒にいる時に嬉しそうな表情をしたのかはわからない。
 ただ、わかるのは杏子が母親に気持ちをぶつけたら、お互い勘違いしていたことがわかり、関係を修復することができたということだけだ。
 杏子の母親が別に杏子のことをキライだとか憎んでいたというわけではなく、ただ「心配だったから」厳しく、口うるさく接していたということ。

(――私もお母さんが生きている時に自分の気持ちをぶつけたら、今の桃瀬さんと同じような笑顔をすることができたのかな?)
 でも、もう、文目の母親はこの世にいない。
 もしかすると、文目の寿命が尽きた後に母親と会えたら、その時は確かめることができるかもしれないが、そんなことが出来る保証もない。

 ただ、自分が出来るのは、今回の杏子のように自分と同じ想いをしてきた人間に占いでアドバイスをすること、そして、自分と同じ想いでなくても何かしらの悩みを持っている人間に占いでアドバイスをすること。
 悩みのある人間を悩みのない方向へ導くようなアドバイスを占いですること……。

 文目は何だか胸の奥がスーッとするような気持ちを覚えた。

 自分はずっと母親とのことや瑞希のことで悩んで来た。
 そして、父親の「これからは自由に生きろ、後悔のないように生きろ」と言う言葉を頼りに、新しい生活を求めて新潟に戻って来た。
 新潟に戻って来たのは、ネットの書き込みで見かけた瑞希の幽霊を探すためでもあった。
 瑞希の幽霊はまだみつからない。同じように瑞希の幽霊を探していた杏子も、結局は瑞希の幽霊を見つけることはできなかった。
 瑞希の幽霊を絶対に見つけたいと言う気持ちは変わらない。

 でも、文目は自分の胸の中に今までとは違う、別の感情が芽生えていることに気付いた。

 ずっと瑞希にコンプレックスを抱いていた。
 母親が瑞希と一緒にいると嬉しそうにするのは、自分が瑞希よりも劣っているからだとずっと思っていた。
 でも、瑞希が優秀だからと言って、自分に何もできないというわけではない。
 柊は自分が何かやるたびにお礼を言ったり褒めてくれたりするし、楠も口は悪いがちゃんとやれば褒めてくれる。
 占いをすればお客さんは笑顔で「ありがとう」と言ってくれるし、杏子のように「本当にありがとうございます」と言ってくれる人もいる。
 瑞希よりも優秀でないとしても、それは自分が劣っているということではないのかもしれない。

 確かに瑞希はいつも一番前にいる、一番目立つ女の子なのかもしれない。
 それに比べて自分は後方の全然目立たない場所にいるけど、だからと言って自分が誰かに必要とされていないとか誰かに好かれていないと言うわけではないのかもしれない。

 後方にいる自分のことを必要だと思ってくれる人は確実にいるんだ……。

(――だって、瑞希だって私と仲良くしてくれていたし)
 あんなに人気者だった瑞希が目立たない自分と仲良くしてくれたのは未だに不思議に思うが、瑞希はその「後方にいる自分のことを必要だと思ってくれる人」だったのかもしれない。
(――なのに私、瑞希にひどいことしてしまったんだ)
 瑞希があの男に誘拐される直前。
 合唱団のソロパートに選ばれなかったことを謝る瑞希に、自分は何て言葉をかけたのだろうか……。

 ――何言ってるの? 瑞希、歌も上手いし声もキレイだから、選ばれて当たり前だよ。選ばれなかったのは、私がもっと頑張らなかったからだもの。私、瑞希に比べたら、全然だし。
 
 自分を必要だと思っている人間から、「私、瑞希に比べたら、全然だし」と言われたら……。
 確かに相手は悲しい表情をするだろう。
 だって、自分の必要な人に「あなたに比べて私は全然だし」と言われたら、文目だって悲しい気持ちになる。
 もし、柊や楠に「文目に比べて、自分は全然だし」と言われたら……。
 自分もきっと悲しい表情をする、と文目は思った。
 自分にとっては必要な人が自分のことを卑下するのを見るのは、悲しいことだ。
 それに、頑張っている姿を見ていたのに「私がもっと頑張らなかったからもの」と言われたら……。
 やっぱり、自分もきっと悲しい気持ちになる、と文目は思った。

(――きっと、楠さんが前に瑞希と同じような悲しい表情を見せたのも、同じ理由だったのかもしれない)
 前に自分は「柊も楠も瑞希と会っていたら、自分よりも瑞希の方に魅かれてしまったのかもしれない」と考えていたことに対して楠が悲しい表情を見せたと思っていたが、やはりそうだったのだ。
 楠が瑞希と同じような悲しい表情を見せた時、自分は思い切り自分のことを卑下するようなことを思っていたし言っていた。
 楠に「誘拐事件はお前が悪くない」と言われたのに「瑞希に会って謝りたい」と何度も言ったし、「私、瑞希に比べたら、全然だし」と言ったことも話したし……。

(――楠さんも瑞希もごめんなさい)
 文目は心の中で二人に謝ると、その後に「ありがとう」と続けて呟いた。
 私のことをそんな大切に思ってくれてありがとう、と。
(――もし、瑞希の幽霊に会えたら、謝るだけでなくお礼も言わなくちゃ)
 自分と一緒にいてくれてありがとう、自分が自分のことを卑下してしまった時に悲しい表情をするくらい、私のことを大切に思ってくれていてありがとう、と。
 ありがとう、と心を込めて言おう。


 その時、文目の耳元に突然、電話の呼び出し音が響いた。
「あっ、すみません、母親からです。――もしもし?」
 杏子がカバンからスマホを取り出して耳に当てた。
 杏子は一言二言スマホの向こうの母親と話すと、スマホを耳から離した。
「どうかしましたか?」
「すみません、私、ちょっとマンションに戻りますね。母親がコンビニで支払いしたいのがあるからついでにやってくれないかって……。先に行っていてください、すぐに戻るので」
「わかりました」

 杏子が足早に元来た道を戻って行くと、文目は杏子とは反対方向をスーパーに向かってゆっくりと歩き始めた。

(――あっ)
 そう言えば、ここら辺は前に杏子が瑞希の幽霊を探していてバッタリ出くわした場所だった。
 街路樹と植え込みが生い茂る中に、前に飲み物を買った自販機がポツンと立っている。
 自販機の周りはそれなりに明るいが、所々立っている街灯はぼんやりとしか灯っていない。人通りも全くないし何とも寂しげな雰囲気を漂わせている。
 文目は何となくノドの渇きも感じたが、どっちにしてもこれからスーパーへ行くしそこで買えば良いと思いながら、自販機の前を通り過ぎようとした。

 そして、通り過ぎた後、ふと何かに気付いて慌てて後ろを振り返った。

 自販機の向こう、街路樹と植え込みが生い茂る中に何やら青い光がぼんやりと光っているように見えた。
(――あの青い光は)
 文目は吸い込まれるように青い光の方へと歩いて行った。


 ――昨日の夜、○○公園でボーッとした青白い光みたいなものが見えたから、何だと思ったら、ランドセル背負ってる女の子みたいな人影が見えて、スーって消えたんだよ。あれは絶対にM.Mの幽霊だって!

 文目は頭の中で、前に「M.Mの幽霊について」のネット掲示板に書かれていた文章を思い出した。
 あの青い光、自分も前に見たことがある。
(――あの青い光、やっぱり瑞希なの?!)
 前はあの青い光は自分の目の前でスッと消えてしまった。
 でも、今度こそは……。
(――今度こそは、瑞希に会って「ありがとう」って言いたい!)
 ありがとうと言って、瑞希に「大好き」と言いたい……。

 青い光は前は文目が近づくにつれて、その光を弱めていった。
 でも、今日は違った。
 文目が青い光に近づくにつれて、その青い光はどんどん強く光って行く。
 やがて、青い光の中に何か黒いものが見え始めた。
 その黒いものは段々と何かの形を作っていく。
 文目は思わず歩みを止めた。
 文目の目の前で黒いものがどんどん「何か」になっていく。
 ただ、黒いだけだと思っていた黒いものも、「何か」になっていくにしたがって黒いだけの色ではないということに気付いた。
 黒が、赤やアイボリーや白に変わっていく。

 文目が立ちすくんで見つめている中で、あの黒いものがどんどん「人」になっていく。
 やがて、全ての黒いものが変化し終わると、それはランドセルを背負っている女の子になった。


 ――瑞希だ。

 文目は息を飲んだ。

 目の前に青い光に包まれた瑞希が立っている。
 忘れもしない、小学校の時にあの誘拐犯に襲われた時と同じ服を着ている瑞希が、目の前に立っている。
 キレイな大きな瞳もサラサラのショートカットの髪も滑らかな白い肌も、背負っているチョコレートのような茶色い色のランドセルも当時のままだ。

「――瑞希」
 文目は呟きながら瑞希の方に一歩近づこうとした。
 その時、瑞希が文目のことに気付いたのか、文目の方に顔を向けた。
 文目の方を向いた瑞希は、一瞬悲しそうな表情をした。

 文目は瑞希の悲しそうな表情を見て、歩みを止めた。
(――やっぱり、瑞希、私のこと恨んでいるのかな?)
 文目が瑞希を見つめたまま立ちすくんでいると、瑞希の唇がゆっくりと動いた。
 何か声を発しているようにも見えるが、何を言っているのかわからない。
「――えっ? 何?」
 文目が言うと、瑞希はもう一度唇を動かした。
 文目は瑞希の唇を見つめながら、声を聞き取ろうと必死に耳を澄ました。

 ――ごめん。
 瑞希はそう言っているように聞こえた。

(――瑞希、どうして私に謝ってるの?)
 文目は不思議でならなかった。
「――ごめんって、どうして謝るの? 私の方こそごめん」
 文目の言葉に瑞希は首を横に振った。

 ――苦しませてしまって、ごめん。
 瑞希はまた唇を動かした。

(――苦しませてしまってって)
 そうだったんだ、と文目はやっと気づいた。
 瑞希はもしかすると、生きている文目が自分のことで苦しんでいることをずっと気にしていたのかもしれない。
 文目が足を踏み入れることが出来ない、遥か遠くのところで文目を見ながら、ずっと気にしていたのかもしれない。
 文目の前に姿を現しても、文目が自責の念にだけ駆られてしまうのではないかと思って、あんなに探しても目の前に現れようとしなかったのかもしれない……。

「そんなことないよ。私の方こそごめんね。瑞希の気持ちに全然気づかなくて……」
 文目は自分の頬に自然と伝って来た涙を指先で拭った。
「――」
 瑞希は笑顔を見せると、首を横に振った。
 文目は瑞希の笑顔を見て、自分の心の中に固まっていた何かが溶けていくような、そんな気持ちがした。
「――ありがとう、瑞希。一緒にいてくれてありがとうね。大好きだよ。瑞希のこと、ずっと大好きだよ」
 文目の言葉に瑞希は笑顔のまま首を縦に大きく振った。

 ――私も、大好きだよ。

 瑞希の言葉が微かに聞こえたと思ったら、瑞希の輪郭がぼやけ始めて来た。
 瑞希を包んでいるあの青い光も、輝きを弱めていく。

 そして、文目が見ている前で、瑞希の姿と青い光が段々と小さくなっていった。

「――あっ」
 文目がハッとして手を伸ばした時には、もう瑞希の姿も青い光も消えかかっていた。
 文目の指先の向こうで、瑞希と青い光はフッとロウソクの炎に息を吹きかけたように消えてしまった。
 後には、ついさっきまでと変わらない街路樹と植え込みと、自販機と街灯の明かりだけが残った。


(――やっと、瑞希に会えた)
 文目は身体の力が抜けて、その場にしゃがみ込んでしまった。
 両目から流れて来る涙を拭こうと思っても、何だか手に力が入らなくて何もできない。
 ずっと探していた瑞希にやっと会えたのだ。
 瑞希に会えてちゃんと謝ることも出来たし「ありがとう」と言うことも出来たし、「大好き」と言うこともできた。
 瑞希も笑顔で「私も、大好きだよ」と言ってくれた……。
(――瑞希、ありがとう)

「――蓮見さん!」
 遠くの方で声が聞こえた。
 杏子の声だ。
 文目はまるで催眠術が溶けたかのように慌てて立ち上がると、カバンからハンカチを取り出して涙をぬぐった。
(――そうだ、桃瀬さんと一緒にスーパーに買い出しに行っている途中だった)

「――桃瀬さん」
 文目は小走りで自分の方に走って来た杏子の顔を見て驚いた。
 杏子は自分と同じようにさっきまで泣いていたような顔をしているのだ。
 まさか、今更杏子の母親と何かあったわけではあるまいし……と文目が思っていると、杏子は息を弾ませながら文目の目の前で立ち止まった。
「蓮見さん、あの、私……。私、実はさっき、そこで瑞希ちゃんの幽霊に会ったんです」
「えっ?!」
 文目は思わず大きな声を上げてしまった。「幽霊って……。本当ですか?」

「はい。マンションからここまでの道を歩いていたら、植え込みの向こうに青白い光が見えたんです。街灯にしては変な色だし、何だろうと思って近づいて見てみたら、青白い光の中にランドセルを背負った女の子がいて……」
 自分と同じだ、と文目は思った。「あの女の子、確かに瑞希ちゃんでした。瑞希ちゃんがいなくなったのってかなり前だけど、瑞希ちゃん、ものすごくかわいい()だったから良く覚えているんですよ。
 私が『瑞希ちゃん?』と声を掛けると、私の方を見て笑って、頷いたと思ったらスッと消えたんです。後には青い光も何もかもなくなってしまっていて……。
 私、幽霊なんて初めて見たんですけど、怖いと言う感じが全然なかったんです。それよりも、瑞希ちゃん、あんな感じで亡くなってしまったのに、私に笑顔を見せてくれるなんて、本当に良い()だったんだなって、悲しくなって涙が出て来ちゃって……。
 でも、どうしてなんでしょうね? 母親のためにあんなに探していた時は見つからなかったのに、もう探さなくてもいいやと思ったら、あんなにもあっさりと姿を現すなんて……。
 蓮見さん、私が瑞希ちゃんの幽霊を見たって、信じてくれますか?」

「もちろんです、信じます」
 文目は大きく頷いた。「実は私も……。今、そこで見たんですもの」
「えっ?! 蓮見さんも見たんですか?」
 今度は杏子が大きな声を上げた。