司朗と出会い、浄法寺で暮らすまで、立夏にとって漆器は『おめでたい席や高級な料亭でしか使われない食器』というイメージだった。日常の食事の際、気軽に使うようなものではないし、手入れも難しいと思っていた。
 しかし司朗とともにこの里で暮らしてみて、そうではないとわかった。
 漆器はけっして箱詰めして大事にしまっておくための器ではなく、もっと普段使いしていいものなのだ。

「漆器は漆を何重にも塗り重ねた丈夫な層ができてるから、たいていの汚れはさっとぬるま湯で洗うだけでいいんだよ。あとは乾いた布巾で拭いたら終わり」

 カフェ営業中、漆器を布巾で磨いていた立夏の質問に、司朗は笑顔で答える。

「食べものがこびりついちゃったらどうするの?」
「米粒なんかだったら、ぬるま湯で少しつけ置きかな。その後で軽くこすればたいていは取れるよ。油汚れもやわらかいスポンジと洗剤だったら使えるし。あ、もちろん食洗機はだめだけどね」
「わたし、よく瀬戸物を洗ってるときにぶつけて欠けちゃうから漆器を洗うの怖いなあ」
「大丈夫。漆器なら欠けても補修できるよ」
「えっ、そうなんだ。直せるの?」
「そうだよ。だからむしろ何十年も使えて長持ちする器なんだ。使えば使うほどに新品にはない艶も出てくるしね」

 司朗は家やカフェで漆器を使っているが、それは自分で作ったものだと言っていた。
 浄法寺には浄法寺塗という漆器の伝統工芸が存在するので、その技法で作っていると思いこんでいた立夏は、そうでないと知ったときには驚いたものだ。

「そうなの? てっきり、浄法寺塗なんだと思ってた」
「いいや、自己流だよ。神社の建物や鳥居なんかに漆を塗る修行は受けたけど、食器のほうは全然。だから塗りは自己流なんだ」
「へえ~、全然知らなかった。売り物みたいにきれいだから」

 素直に立夏が賞賛すると、司朗の頬が赤くなる。
「あ、ありがと」
 照れてうつむきがちに頬を掻く様子が、何だかかわいらしい。川越から戻る前の司朗は年齢より落ち着いて見えることが多かったが、今は逆に年齢より若く見える。

「ちわーっす」

 そこに眠そうな声で清明がやって来た。

「何だその顔は。雨ばっかりだから漆掻きが休みなのをいいことに、また朝までスマホゲームしてたんだろ」
「こら、人聞きの悪いことを言うな。ちゃんと四時には寝たぜ」
「四時はもう朝だ」
「いいから何かテキトーに飯頼むわ」
「へいへい」

 いたっていつも通りのやり取りの二人に笑いながら、立夏はお冷を差し出す。

「注文は何でもいいの?」
「別にいいけど」

 カウンター席に足を組んでぐびっと水を飲みながら、清明は上目遣いに立夏を見る。なぜそんな質問をするのかと言わんばかりた。

「新作メニューの味見してほしいなって思って」
「またかあ? 最近多くね?」
「いいじゃない。清明くんが一番頼みやすいんだから。好き嫌いもアレルギーもないし」
「……ったく、しょうがねえなあ。で、今度は何だよ?」
「えっとね――」

 口ではそう言いながらも清明はどこか嬉しそうな様子だ。そんな清明と立夏の間に、仏頂面の司朗がぐいっと割り込んでくる。

「お客さま、当店の本日のおススメは店主からご案内させていただきますね」
「なっ、何だよ、おまえ」
「ほらほら、立夏はあっち。お客様がお呼びだよ」
「あっ、ごめんなさい。今うかがいまーす」

 こちらに向かって手を上げていた二人組のもとへと、立夏は足早に向かう。

「漆ハチミツのレモネードと漆のコーヒーお願いします。それから生みたて卵のプリンアラモードと、へっちょこ団子入りクリームあんみつも」
「ありがとうございまーす」

 コーヒー以外は冷たいメニューなので基本的に冷蔵庫から出すだけだ。そのコーヒーもだいぶドリップの訓練をしたので、今では立夏も自分で淹れられる。
 司朗に頼まずとも自分でやろうとふりむいた立夏が見たのは、どこか険悪なムードの司朗と清明だった。

「……二人とも、どうかした?」
「「別にぃ?」」
 彼らの引きつった笑顔の理由を、立夏は知る由もない。



「ところでさ、おれは別に飯食いにだけ来たわけじゃないんだよ。これ見ろって」

 さんざん食べた後で、清明は半ズボンの尻ポケットからスマホを取り出した。

「廃校再生プロジェクト?」

 手渡されたスマホをスクロールする司朗の後ろで覗きこんでいた立夏が声を上げた。

「そう。ここ浄法寺の青年団が発起人になってさ、廃校した小学校の校舎を使って、観光資源にできないかって」
「おまえ、青年団メンバーだもんな」
「おまえも入れよ。慢性的人手不足なんだよ」
「ぼくは団体行動が苦手だから遠慮するよ」

 勘弁してくれよという顔で司朗はスマホを返す。
 立夏には初耳だったが、言われてみるといかにもそうだろうと思われた。もちろん立夏も団体行動は幼少のみぎりから基本的に苦手である。
 だから清明に視線を向けられて、すかさず首を横に振った。清明は呆れたようにカウンターに頬杖をついてため息を漏らした。

「おまえらなあ。似た者夫婦過ぎるだろ」
「ちょっ、まだ夫婦じゃないよ!」

 立夏は反射的にバシンと清明の背中を叩いてしまい、お冷を口に運んでいた清明はむせた。

「ゲホゲホッ、あんたなあ……」
「ご、ごめん」
「まあ、青年団に入らなくてもいいからさ。ちょっと手伝えよ。せっかくだから浄法寺の漆を外の人にPRできるような案を考えようぜ」
「そういうことなら」
「うん!」
「よし決まりだな。じゃあ、行こうぜ」
「えっ、これから!?」
 目を丸くする立夏に、清明は「おう」とこともなげに言い放ったのだった。