お盆明ければ雨が降るたびに涼しいどころか寒さが増し、九月下旬から北海道の山々は秋色へと変わり始める。
 その秋色に、北海道が包まれている中。鈴野原(すずのはら)咲空(さくら)の表情は色を欠き、どんよりと暗いグレー色だった。せたな町に行った夏以来、彼女の調子は悪い。来客ゼロの閑散としたソラヤに響くのは咲空のため息だった。

「……はあ」

 店内の掃除をしようと箒を手にするも、上の空である。忙しい時は忘れられるのだが、こうも暇になってしまうとぐるぐる考えてしまって暗くなる。そこにアオイが声をかけた。

「また玖琉くんのことでお悩みですか?」

 というのもあの夏から、友人である白楽(はくら)玖琉(くる)と連絡が取れなくなってしまった。メッセージを送っても未読のまま、家に帰っても隣の部屋に気配はない。大家に確認したところ退去の申し入れがあったらしく、玖琉は荷物もすべて引き上げてどこかへ消えてしまった。札幌(さっぽろ)で最も信頼できる友人だっただけに咲空の落ち込みは大きい。

「考えても仕方ないと思いますよ。いつか連絡がくるかもしれませんし」

 夏以来、咲空が口にするのは玖琉がいないというお悩み相談ばかり。さすがに聞き飽きたらしいアオイは、ふわぁとあくびを一つ。今日は来客予定もないのですっかり気が抜けていた。

「それよりも。今日、僕に作ってくれるご飯って何ですか?」
「何がいいでしょう。貯蔵庫とにらめっこして考えます」
「昨日は肉だったし、今日はシンプルなものが食べたいですね。おひたしとか胡麻和えとか」

 ふむ、と咲空が考える。

「そういえば、貯蔵庫にエゾカンゾウありましたよね」
「ありますよ。食べられると聞いたので集めてみましたが、調理方法はさっぱりわかりません」
「若葉をおひたしにして食べると美味しいんですよ。花をてんぷらにする人もいますし、根は薬になるとか。私はもっぱら葉のおひたしが好きですが」
「いいですね、気になります」
「そうしましょうか。でもあれ、不思議な話があって。忘れ草っていうんですけど――」

 咲空の話を遮ったのはソラヤの扉の音だった。誰も来る予定はないというのに開く扉。誰がきたのかと二人が振り返れば、そこに立っていたのは意外な人物だった。

「夏狐、見つけたぞ」

 静かな怒りを秘めたように低い声。その姿の、つまさきからてっぺんまでを何度も何度も確認し。それから咲空は叫んだ。

「く、玖琉!」

 手にしていた箒を捨てて駆け寄る。口調がいつもと違う気はするが、背格好も髪も目も、ぜんぶ玖琉と同じだ。夏以来の再会で心が歓喜に沸く。

「どこにいたの、なんで連絡してくれないの!? 体調悪いとか変なことに巻き込まれたとか!?」

 しかし玖琉はというと。咲空を一瞥し、冷たく言い放った。

「関係ない」
「え……?」

 駆け寄ってきた咲空を無視して、ずかずかと店内に立ち入り、アオイの前に立つ。普段にこにこと微笑んでいるアオイもこの時ばかりは険しい顔をしていた。

「任を忘れて随分と楽しそうだな。逃げ回っていた気分はどうだ?」
「これはこれは、久しぶりですね。でも来店するなら予約を入れてくれます? 僕も暇じゃないんで」

 玖琉とアオイは知り合いらしいが、その仲がよくないことは咲空も察することができた。玖琉の瞳は冷えた怒りが浮かび、今にもアオイを殴ってしまいそうで。対するアオイも口ぶりは飄々としたいつものものだが目が笑っていない。

(ど、どういうこと。玖琉とアオイさんが知り合いで……仲が悪くて……でもソラヤに来るお客さんって……)

 咲空は玖琉を見る。何度見てもやはり玖琉だ。顔は確かに整っているが、今までのお客様たちのようなキラキラ輝くスーパーイケメンではなく、普通のイケメンだ。だからまさか、蝦夷神様なんて、そんなはずは。その疑念に答えるように、玖琉が口を開く。

「本来の姿に戻れ。審判が下った」
「……お断りします」
「お前に拒否権はない。早く本来の姿に戻れ、父神が待っている」

 玖琉が一歩、アオイににじり寄る。緊迫した空気、詰まる二人の距離。そこへ咲空が割り込んだ。

「ま、まって! 話についていけないんだけど!」
「邪魔するな」
「本来の姿って、二人は何を話しているの? 玖琉は蝦夷神様じゃないよね、人間だよね!? だって私、玖琉のことぜんぜん気づかなくて……」

 面倒だと玖琉が露骨にため息を吐いた。その代わりに、アオイが強張った表情のまま答える。

「サクラちゃん。彼は蝦夷神様の一人、英雄神アイヌラックルです」
「だ、だって、玖琉は私の友達で……」
「ごめんね。そんな予感がしていました。蝦夷神様にしかわからない技術で住所を書いたのに、純粋な人間のサクラちゃんがこの店に辿り着けるのはおかしいことなんです。だから君の友達は蝦夷神様だろうと気づいていました。それがまさか、英雄神だなんてねぇ」
「余計なことを言うな」

 玖琉が舌打ちをした。今まで玖琉が舌打ちをするなど見たこともない。穏やかな性格の人だとばかり思っていたのだ。久しぶりにあったとおもえば性格は急変し、しかも蝦夷神様ときている。理解が追い付かない。

「玖琉が蝦夷神様……嘘でしょ……」
「本当だ。俺はある目的のため人間に擬態していた。それにこの男も付き添う予定だったが――この結果だ。任を放棄して遊びまわり、札幌の片隅でお店屋ごっこときた」
「……アオイさん、も?」

 アオイに視線を向ければ、その通りだよと示すように大きく頷いている。

「……英雄神の言う通りですよ。僕は任を放棄してここに店を構えていますから」
「その任務ってのは――」

 玖琉は咲空の問いに答えようとし――開きかけた唇は噛んで塞いだ。答える気がないらしく視線を逸らしている。告げたのはアオイだ。

「この大地を新たに作り直すべきか、人間の目線で判断する――どこかで聞いたことのある話でしょう?」
「あ……まさか、磯野さんが言っていた話……」
「はい。雷神は人間たちに怒り、人間を滅ぼして新たな地を作ろうとしているんですよ。神の視点ではなく人間の視点でも存在価値を判断するため、擬態する必要がありました。そのため選ばれたのが英雄神――君が玖琉くんと呼んでいた者です」
「……夏狐、喋りすぎるな」

 玖琉が険しい表情をして言った。その後も続けて喋るものの、彼が咲空の方を見ることはなく、視線は他へと向けられていた。

「父神がこれ以上待つ必要はないと判断した。これより宝剣を用いて人間を滅ぼし、土地の浄化を行う。だから夏狐、お前も戻ってこい」
「ちょ、ちょっと待って! 地上浄化って、それは……」
「人間をすべて滅ぼす。一人残さず焼き尽くす」
「ってことはサクラちゃんも含まれちゃいますねぇ」

 ソラヤでおなじみの、唐突にやってくる生命の危機である。玖琉が冷たい態度をとるのも、目を合わせてくれないのもこれが理由かもしれない。
 嫌な気配を感じ取って顔を顰めた咲空と異なり、アオイはへらへらと笑っていた。

「さてどうしましょう。その地上浄化作戦、中止にしてもらえる方法はありませんか?」
「ない。早く戻ってこい。お前が嫌がろうとも無理やり連れていくぞ」
「だ、だめ!」

 そのままアオイを連れて行ってしまいそうな気がして、咲空は遮るように二人の間に立つ。しかし玖琉は咲空を無視してアオイを睨みつけていた。

「英雄神は人間の味方だと思っていたんですが、違ったんですね」
「人間は……嫌いだ。早くしろ夏狐、お前が戻らぬならこの人間を消してやる」
「それは困りますねえ」

 からりとした声音であったが、その言葉に寂しさが混じっているような気がした。しかし咲空はアオイと玖琉の間に立っていて、振り返る余裕なく、アオイがどんな表情をしているのかわからない。

「ソラヤは閉店かな」

 耳に落ちたアオイの切ない呟きが、咲空の胸をきゅっと締め付けた。

(『楽しいねえ、この仕事』ってアオイさん言ってたのに)

 真冬の札幌。春の紋別(もんべつ)に夏のせたな。北海道を東から西へと移動して、いつもアオイは笑っていた。父との不和など様々なことで悩む咲空を導き、時にからかって。その根っこにあるのは、ソラヤを楽しんでいることだ。それが、終わってしまうのなら。

(私、まだこの仕事をしていたい。色んな蝦夷神様に会ってみたい)

 その決意が、咲空に力を与えた。きりと凛々しいまなざしを玖琉にぶつけて、物怖じすることなく叫ぶ。

「私が、玖琉を人間好きに変えてみせる!」

 名案だと咲空は思っていた。人間嫌いという玖琉が人間を好きになれば、地上浄化という恐ろしい考えも捨ててくれるだろう。どうやって人間を好きにさせるかという具体的な案はないものの、まあなんとかなるはずだ。この行き当たりばったりなところは雇用主の影響もあるかもしれない。

 咲空が叫んだ謎の提案に、アオイも玖琉も呆然とするしかなく、ソラヤに奇妙な沈黙が流れた。ようやく動いたのは玖琉だった。呆れるような怒るような、何とも言い難い調子で答える。

「いや、それは……だから俺は人間が……」
「大丈夫! 蝦夷神様に人間の暮らしを案内するのがソラヤのお仕事だから! 玖琉の人間嫌いを治してみせる!」

 そこでくつくつと笑う声が聞こえた。振り返ればアオイが腹を抱えて笑っている。

「人間嫌いを治してもらえるそうですけど、どうします()()くん?」
「その呼び方はやめろ。ふざけたことをしている時間はない」
「では、まずはサクラちゃんを焼き殺せばよいでしょう。力の足りぬ宝剣でもそれぐらいできますよ」
「……っ、わかった」

 アオイと玖琉のやりとりを無視して、咲空はどうすれば人間嫌いが治るかと考えていた。あれやこれやと案を出し、いざ顔をあげれば玖琉がこちらを見ている。

「……咲空、」

 その唇が動き、何かを言いかけていたが、よく聞き取れなかった。そして腰に下げた刀に手を伸ばす。

(刀!? まさか、私斬られる!?)

 覚悟して身構えると同時、緊迫するソラヤに響いたのは間抜けな電子音だった。音を変えずデフォルトのままにしていたので、童謡『赤い靴』が鳴る。大人たち三人が睨みあう中で、あえての童謡である。それは咲空のポケットから発するもので、慌ててスマートフォンを取り出す。

「す、すみません。電話が」

 アオイが「童謡なんだ……ってかこのタイミングで」と笑いを堪えていたが、まずはこの音を止めなければ。スマートフォンを見ると、どうやら着信が入っているらしい。

「……え?」

 そこに表示されていた名前は咲空実家のご近所さんだった。実家の向かいに住んでいて、度々父が飲みにいくような親しい間柄だ。咲空も幼い頃からお世話になっている。
 何かあった時のためにと連絡先の交換をしていたが使うことはほとんどなかった。それが初めて、着信が入っている。

「……はい。咲空です」

 通話に出る。咲空自身驚くほど声が震えていた。
 滅多にない人物からの着信。実家の近く。父と仲のいい人。あらゆるものが繋がって、咲空に嫌な想像をさせる。

『ああ。よかった、繋がって』
「いえ大丈夫です。何か、あったんですか?」
『あのね。誰も咲空ちゃんに言ってないと思うんだけど――』

 スマートフォン越しに、すっと短く息を吸い込む音が聞こえた。
 低く、沈むような言葉が告げられる。

『咲空ちゃんのお父さん、怪我したんだわ』



 通話を切った後、咲空はその場に座り込んだ。命に別状はない怪我と聞いて安心はしているものの、人づてでなければ父親の状況を知ることができないというもどかしさ。気分はずっしりと沈んでいた。

 咲空の表情からよくないことが起きていると察したらしいアオイが駆け寄る。

「……もしかして。お父さんに何かありました?」

 その問いかけにゆっくりと頷く。アオイは険しい表情のまま、座り込んだ咲空の手を掴んだ。

「さ。早く行きますよ」
「え?」
「は?」

 驚いたのは咲空だけではない。そこにいる玖琉もだった。アオイは玖琉を無視し、咲空に向けて言う。

「こういう時にこそ駆け付けないと。紋別に帰りましょう」
「で、でもそこまでしなくたって……」
「だからお父さんとの関係が冷えているんです。ただ想うだけじゃ届かない、相手に伝えてこそ想いは力になる。今すぐ行きますよ」

 腕を引くアオイだったが、許さんとばかりに声をあげたのは玖琉だった。

「そんな時間はない。父神が怒っている」
「雷神なんて後回しです。それよりも僕は、目の前の人間を救いたい。サクラちゃんと紋別に連れていきます」
「くっ……」

 腰に下げた刀に手をかけるも、玖琉の手は震えていた。アオイを睨みつけながら何かを考え、そして。

「俺も行く」
「え? 玖琉も!?」
「ここで夏狐を逃がすよりも、監視した方がいい――だが約束しろ。咲空の事情が終われば、夏狐はあるべき場所に戻れ」
「……前向きに検討します」
「拒否権はない。その尾を引きずってでも帰るからな」

 玖琉は刀から手を放し、咲空の空いた手を掴む。

「……咲空。行こう」

 声音は冷たくとも、咲空がよく知る玖琉と同じ優しさがある気がした。

***

 葉は赤や黄色を纏い、葉がゆらゆらと流れる秋の昼。咲空を乗せた車は高速道路 道央道(どうおうどう)を走っていた。
 運転席にはアオイ。助手席には咲空――のはずが、そこにいるのは玖琉である。寂しく後部座席に座っているのが咲空だ。月寒あんぱんを詰め込んだいつものボストンバックが隣に置いてある。

(……玖琉まで巻き込んでしまった)

 咲空の頭に浮かぶのは後悔だ。人間嫌いを治すはずが、まさか紋別に帰るとは。

「咲空。まさかと思うが、紋別やせたなに行った時は助手席に座っていたのか?」

 車が走り出してしばらく無言が続き、やっと喋ったと思えば玖琉の声音は不機嫌がにじみ出ていた。そして質問の理由も謎である。咲空は首を傾げながらも答える。

「そうだけど……何か問題あった?」
「……いや、いい」

 答えたのにその反応では何のために訊いたのか。咲空にはわからなかったが、アオイには伝わっていたらしい。

「はは、なるほど。玖琉も大変ですねぇ。何なら次のパーキングエリアで運転を代わりましょうか? 僕、後部座席で寝てますよ」
「お前は黙って運転してろ」

 それはひどい、とアオイが呟いて会話が終わる。アオイも玖琉も口数が少ない。

 車はまだ旭川(あさひかわ)にもついていないというのに車中の空気は最悪だ。これなら一人で紋別へ向かった方が気楽である。この重たい空気を払拭できないかと悩みながら、咲空は二人に訊いた。

「二人は蝦夷神様……なんですよね」
「そうですね。玖琉は英雄神アイヌラックル」

 アオイが答えている間、玖琉はそっぽを向いていた。氷のように冷たい、こんな態度をとる玖琉は初めて見る。今までは穏やかに話せる春のような関係だったのに、今は冬のように厳しく冷たく、心も閉ざされてしまったようだ。

「玖琉のお父さんが雷神様……ですよね」
「うん。正解だよ」
「で。アオイさんは?」
「ははーん。それは秘密。内緒事たくさんある男の方がミステリアスでモテるので」
「……それはちょっとわかりませんけど。じゃあ玖琉から聞き出します。ねえ、玖琉?」
「…………」

 咲空がどう声をかけても玖琉は答えない。気まずくて仕方ない。
 高速道路を使っているので今回は三時間半ほどで紋別に着くだろうが、体感時間はもっと長い。早く到着して重苦しい車内から逃げ出したいと、咲空はため息を吐いた。いっそのこと眠ってしまいたい。そういう時に限って、眠気はあまりないのだが。

 道央道を比布まで走ると、旭川紋別道への分岐がやってくる。そのまま道央道を走れば士別(しべつ)剣淵(けんぶち)へ、旭川紋別道に入ると遠軽(えんがる)経由で紋別に向かうことになる。咲空の実家に行くのなら、浮島(うきしま)ICで降りて紋別入りするのが早いだろう。

 春に一度来ているからか、アオイは咲空ナビなしでも迷わず進んでいく。どんより重たい空気が流れる車中で言葉を交わすのが面倒だったのかもしれない、いつもならば旅のお供に食べている大好物の月寒あんぱんでさえ手をつけていなかった。

***