()()()、ビルが無いのさー!!」

 冬。雪まつりに向けて雪像建設中の北海道札幌(さっぽろ)大通(おおどおり)公園を背に、怒り叫ぶ女の姿があった。今日は朝から絶賛氷点下マイナス10℃となかなかに寒い日な上、ぽたぽた雪が降っている。そんな悪天候のおかげで女の叫び声に足を止める者はいなかった。その叫びが、思いっきり(なま)っていたとしても。

 彼女の名は鈴野原(すずのはら)咲空(さくら)。肩に雪が積もろうがおかまいなしなほど、怒っている。
 咲空は地図アプリを確認する。バイト情報誌の住所と地図を示し合わせてみると住所はここであっているのだがビルは存在せず、面接予定だったバイト先に連絡するも繋がらない。諦めた方がいいのだろうが、咲空はどうしてもここを離れたくなかった。

(あのド田舎には絶対に帰りたくない。私は今日、バイト先を見つける)

 バイトが決まらなかったら故郷に帰ると願掛けしてここまできたのだ。それが面接どころかビルを見つけられずに終えるなど許せるものか。

 この冬は咲空にとって不運続きだった。勤めていたアルバイトは次々と閉店。新しいバイト先を探すが、面接で不採用、勤務初日から店長失踪で休業と、呪われているのかと疑うほど仕事にありつけない。貯金を少しずつ崩して生活してきたがそれも限界である。目標のために蓄えてきた貯金をこれ以上減らすわけにはいかなかった。故郷へ帰れば住むところはあるのだが――その選択は後回しにしておきたい。

(もう一度周辺を歩く、いや大通駅地下に戻って最初から歩き直してみよう)

 執念だ。カバンの中に入っている履歴書には『長所:根性がある』と書いているが、その根性が斜め上に発動して、粘りに粘っての大捜索である。
 大通駅地下まで戻るべく、道を引き返そうとした時だった。

「あれ、咲空。今日は面接だったんじゃ――」

 階段を上がってきた一人の男が、咲空に気づいて声をかけた。
 彼は白楽(はくら)玖琉(くる)。札幌で知り合い、意気投合した友人だ。諸々の都合があって、咲空と同じアパートの隣の部屋に住んでいる。

「その予定だったけど、ビルが見つからないんだよね」
「俺にも見せて、力になれるかもしれない」

 咲空は地図を見せる。バイト情報誌から切り抜いた面接予定地の住所も渡した。

「『特殊なお客様を観光案内、調理経験あり優遇』……変な業務内容だね。こんなお店で働こうとしているの?」
「そ、それは……」

 咲空も女の子で、今どきのカフェやオシャレなバーへの憧れはある。当初はそういった職務を希望していたのだが、どれもこれも採用にならない。次第にコールセンターやスーパーのレジ打ちといったところに応募したのだが現在に至る。無職だ。こうなったら皆が避けそうなバイトを選ぶと決め、変な業務内容の『ソラヤ』を選んだのだ。働けるのならどこでもいいと思っていた。
 それを玖琉に話してもよかったが、玖琉は咲空と違って、すぐに新しいアルバイトが決まった男だ。しかも住所は高級住宅街にある大人気オシャレカフェときた。咲空も応募していたが玖琉だけが採用となってしまったが、よく考えれば理由はわかる。あのスタイリッシュな制服は爽やかな顔立ちの玖琉によく似合う。イケメンと呼べるほどではないが、手の届きそうなところにいるちょうどいいかっこよさの玖琉ならば、カフェに通う女性客に人気が出るだろう。それが悔しくて玖琉に話すのは躊躇われた。

「あれ、この場所って」

 住所と地図を交互に見ていた玖琉が首を傾げた。

「住所に『豊平(とよひら)月寒(つきさむ)』って書いてあるけど」
「え!?」

 驚いて確認するが、豊平区の豊の字も書いていない。中央区大通西――今日何度も確認した住所と同じだ。

「大通ってあるけど」
「なんか変だな。豊平区月寒の住所じゃないのか?」
「えええ……なにそれ……」

 変な業務内容だけでなく変な住所。しかし玖琉の顔は真剣で、咲空をからかって遊んでいるわけではなさそうだ。
 大通を探しても該当のビルはない。となれば最後に玖琉が言う住所を調べるしかない。咲空はカバンからメモとペンを取り出して玖琉に渡した。

「その住所、ここに書いてもらってもいい?」
「いいよ――でも本当にここに行くのか?」」

 さらさらと書きこまれていく住所に、あれほど探したビルの名前は一文字も出てこない。怪訝な物言いも咲空には届かない。腹の中は怒りで燃えていた。

「こうなったら採用になろうが不採用だろうがいいの。わけのわからない住所を書いた文句を言ってくる」

 咲空は地下鉄大通駅に向かった。冬の寒い日、散々歩かせたソラヤに文句を言うために。

***

 豊平区にあんぱん道路と呼ばれる道がある。月寒から平岸を結ぶ2.6キロの道路は、明治四十四年に完成し、ある出来事からあんぱん道路と名付けられ、地元民に親しまれている。
 道路名の由来はさておき。あんぱん道路は曲がり道や坂道が多い。近くの自動車学校では、技能研修の際にあえてこの道路を通って練習することがあるほどだ。比較的平坦な道や大きな通りと重なる部分もあるのだが、咲空が向かおうとしていたソラヤはあんぱん道路坂道の間である。札幌市営地下鉄東豊線月寒中央駅で降りても、しばらく歩かなければならない。
 こうも歩くとなれば車を使って移動したいところだが、残念ながら免許は持っていても車がない。レンタカーを借りるにしても店を探すのが面倒で、タクシーを使うには駅から離れてしまった。歩くしかないのである。

(採用になっても通いたくないな……)

 氷点下の坂道を歩くのは気を使う。ブーツに付着した氷が解けて靴下はべっとりと濡れていた。歩くたびにブーツの中で水がびちゃびちゃと跳ねて煩わしい。氷のように冷たかった水は体温混ざってぬるくなってきた。あまりの冷たさに感覚がないだけかもしれないが。

 うんざりとしながらもひたすら歩き、ようやく地図アプリの目的地と現在地の表示が重なった。
 そこにあるのはビルではなく、ただの家。普通の一軒家だった。あちこちに吹き付けられた雪が混ざっているがクリーム色の外壁に紅色の三角トタン屋根。少し遠くからその屋根の形を見上げた咲空は、この家はそれなりに古いのだろうと思った。

 北海道のように屋根の雪が凍ってしまう地域では瓦の屋根は使われず、雪の滑り落ちやすいトタンを使っていた。しかしこのトタン屋根は雪が滑り落ちやすいがためのデメリットを持っている。まずは屋根に積もり凍った氷雪がトタン屋根を滑り落ちる落雪事故だ。屋根からの落雪に人が巻き込まれると大怪我、最悪は死ぬことさえある。落雪の勢いは、地面に落ちる氷雪の音を初めて聞いた人が雷が落ちたと驚くほど。落雪に至る前にと屋根の雪下ろし作業をする者もいるが、傾斜のきついトタン屋根である。雪下ろしのはずが屋根から落ちて大怪我という話もよくあるものだ。さらにつららである。屋根から伸びたつららは、天候や地域によっては1メートルを超える。それが落ちてくるのだ。大きなアイスピックが空から降ってくるのを想像すればいい。
 ともかく。近年の北海道住宅事情は、トタン屋根でなく無落雪屋根が多い。遠くから見ると豆腐のような家である。無落雪屋根には雪止めやV字型など様々な形があるが、どれも雪下ろしの必要少ない、便利な家である。

 ソラヤは古き良き三角の屋根。トタン屋根だ。近年建てられた家ではない。しかし外壁は綺麗な上、こじんまりとした庭もある。今は冬だからか雪が積み上げられているが歩道から玄関まで丁寧に雪をかいている。軒先に雪かきの道具も並んでいた。
 クリーム色の外壁と赤いトタンの印象からか、女性が住んでいそうな家だと思った。可愛らしい配色。さらに『ソラヤ』と書かれた表札の隅に、ポイントとして花の絵が彫ってあった。
 相手が同性であれば文句も言いやすいかもしれない。咲空は短く息を吸い込み、呼び鈴を鳴らした。

「はーい?」

 しかし聞こえてきた声は、可愛らしい外観と真逆の低さ。男性の声がした。
 面食らう咲空だったが、ここまで何のために歩いてきたのかと責めるようにブーツの中が水でびっしょり。引き返してなるものかと自分を奮い立たせて、口を開く。

「今日、面接予定だった鈴野原咲空です!」
「面接予定……ああー、なるほど」

 今思いだしたとばかりの物言いである。意気込む咲空と逆にゆるい空気が流れていた。
 そしてようやく扉が開く。

「うんうん。そういえば面接予定でした。君、よくここに着けましたねぇ」

 現れた男は、白いシャツに黒のスラックス、腰に黒のギャルソンエプロンと、カフェ店員のような格好をしていた。男にしてはやや髪が長く、セミロングほどはあるだろう。それを低い位置で結っているのだが、どうやって結ったのか不思議なほど髪が乱れている。目鼻立ちくっきりとした濃い顔つきで、イケメンというよりはワイルドだとか男前とかそういった言葉が似合いそうだ。しかしどうも口調が軽いので、軟派な印象になってしまう。

「よくここに着けたって……それどういう意味で――」
「まあまあ。とりあえず中へどうぞ」

 なんとも怪しい雰囲気を纏う男である。ここで逃げ出すわけにもいかず、咲空は男の後をついて店内へと入った。

 カフェ店員のような姿から、ソラヤとは喫茶店かもしれない。そう思っていた咲空だったが、いざ中へ入ればカフェと言い難い狭さである。中には木製のカウンターがあり、席は三席ほど。見渡しても他にテーブルや椅子はなく、木製の棚とそこに小瓶や果物が並んでいる。棚と棚の隙間を埋めるように観葉植物が置いてあり、カフェというには席が少なく、雑貨店というには商品が少ないのである。

(一体、何のお店だろう……)

 いくら店内を眺めても答えは出なかった。しかし、木製で統一されたダークブラウンの家具とそれに合わせたフローリング、あちこちに置いてある観葉植物の緑色が差し色となった空間は居心地がいい。

 さて男はというと。咲空をカウンター席に案内するなり「お茶を淹れてくるよ」と呑気なことを言って、こちらに背を向けてしまった。カウンター内のテーブルにはポットや茶葉が並び、小さな冷蔵庫のようなものもある。やはり喫茶店なのか。
 カウンターの奥には廊下があり、もしかするとここは自宅兼喫茶店かもしれない。廊下は電気が消えていたのでどうなっているのか見えなかった。

 興味津々に廊下を覗き込んでいた咲空を知らず、男はお茶の用意をしながら口を開く。

「ここに辿り着けたのは君が初めてです。みんな、偽の住所を信じてしまうので」
「偽の住所……ってことは、大通の住所はやっぱり嘘ですか!?」
「はい。あれは特殊な技術を使った偽物の住所。それを見抜くのが面接試験ですよ」

 男は笑う。風に流されて舞う粉雪のように軽い。軽すぎるのだ。
 居心地の良い店内に流されていた咲空もその態度は見過ごせない。大通で探し回ってからここまでの苦労が一気に爆発した。

「ずーっと……探し回っていたのに……」
「え?」
「見抜くのが面接試験って、わかるわけないでしょ!? 何回も読んだ、見た、探し回った! 何回見ても大通って書いてましたよ!?」

 男はなぜ咲空が怒っているのかわからないと、すっとぼけた顔をしていた。それでもかまわず咲空は眉間にぐっと皺を寄せて男を睨みつけ、叫ぶ。

「偽の住所を載せて騙すなんて最低です!」

 ようやく咲空が怒る意味がわかったのか、男はじっと咲空を見た後に数度頷いた。しかし紡がれる言葉はやはり軽い。

「なるほど、偽の住所を信じてしまったんですね。でもここに着けたのならオッケーですよ――はい。これでも食べて落ち着いて」

 咲空の怒りなどお構いなしに男はお茶とお菓子を置く。お茶というよりは深いこげ茶色をしていてコーヒーのようだが、香りは違う。あの香ばしさはない。お茶菓子として添えられているのは古き良き、昔を思わせるパッケージをしていた。

「疲労時は糖分補給って言いますから。イライラした時にも効くかもしれません」

 このイライラは男のせいだ。文句を飲みこんで、お茶菓子に手を伸ばす。
 ビニールの包みに入っているのはどら焼きのようなまんじゅうのようなもの。その平べったい形は潰れた温泉まんじゅうを思わせる。しかしパッケージには『月寒(つきさむ)あんぱん』と書いてあるのだ。咲空が知っているあんぱんとは違う。あれはもっとふっくらとしていて、もっと大きい。
 月寒あんぱんの名前を聞いたことはある。札幌のお土産としてもらったことはあったかもしれないが、どんな味かはさっぱり覚えていなかった。

「ほらほら、食べてください。まずは胃袋を満たして」
「……いただきます」

 ぺりぺりとビニール袋をやぶいてあんぱんを取り出せば、見た目よりもずっしりと重たい。皮はそこまで厚くないが、その分こしあんが詰まっている。
 食べてみれば、こんがり焼き上げた皮の香ばしさが口いっぱいに広がり、そこに餡子の濃密な甘さがどっしりと圧し掛かる。和風のどこか懐かしい、素朴な味だ。

「どう、美味しい?」
「……おいしいです」

 一口食べるとやめられない。餡子が多いから甘ったるくなるのではないかと思ったが、そんなことはない。薄皮の香ばしさや触感によって丁度いい塩梅になるのだ。ここまで迷いながら歩いてきた疲れが、甘味によって溶けていく。

 しかし――思っていたよりもこれは腹持ちがいい。咲空が想像していたあんぱんよりも小さいといえ、中身はぎっしり詰まっている。

「僕も食べようかねぇ。お腹が減ってきちゃったので」

 男はカウンターの端に積んである山に手を伸ばす。山と思っていたそれはよく見れば、月寒あんぱんのタワーだ。積まれたその数、十個以上。その頂点をひょいと取ると、慣れた手つきで封を開けた。

「こんなに月寒あんぱんがあるなんて、ここで作っているんですか?」

 咲空が訊くと、男は「まさか!」と笑った。

「これは趣味です。月寒あんぱんは人間の英知が詰まった極上の食べ物ですから! ずっしりと重い餡子に薄皮。この袋には甘味の暴力が詰まっている。なんて素晴らしい食べ物でしょう」
「趣味ってことは、これを全部食べ……る?」

 見た目に反しずっしりヘビー級の月寒あんぱんは攻略が難しく、さほど甘味好きでない咲空は一個食べるのがやっとだ。まさかと疑いながら聞いたのだが、男は当たり前のように「そうですよ」と頷く。
 見れば男は一個目のあんぱんを食べ終えようとしていた。恐ろしい速さである。

 胸やけしてしまいそうな男の食べっぷりを横目に、出されたお茶に手をつけた咲空だったが。

「ぶっ! な、なにこの飲み物……まっず」
「あれ? お口に合いませんでした?」
「何ですかこの、苦くて酸っぱくて舌にビリビリ残る油っこい飲み物!?」

 色からして濃いめの麦茶だろう。なんて想像したのが間違いだった。一体何のお茶なのかわからない。とにかく不味い。

「ンノノスモ茶です」
「ンノ……? な、何のお茶です、これ?」

 咲空が生きてきた二十年間で、これほどに不味い飲み物があっただろうか。コメディ番組の罰ゲームとして出てくる不味いお茶を飲んだことがあったが、それを遥かに上回る。不味い単語を一通り並べても足りないほど、とにかく不味い。
 それを男は平然と飲む。吹きだすどころか、ごくごくと喉を鳴らしていた。

「おかしいですねぇ。このお茶、うちのお客様に外れたことはないんですが」
「……水ください」
「はいはい。仕方ないなあ」

 月寒あんぱんが美味しいというのはわかる。男ほど数は食べられないだろうが。
 しかしこのンノノスモ茶に関してはわかりあえない。こんなお茶がこの世に存在していたことにショックを受けてしまう。
 奥の部屋へと引っ込んだ男は、水の入ったコップを手に戻ってきた。それも不味いのかと一瞬ほど疑ったが、口にすればちゃんと水だった。安心して口中に張りついた謎茶の不味さを流しこむ。

「話を進めましょう。僕はソラヤの店主、アオイです」
「アオイさん、ですか」
「はい。君はサクラちゃんですね。初めてここに辿り着いた従業員候補ですし、最終試験をしましょう。ちょっと厄介なお客様が来るので手伝ってもらいたいんですよ」
「何を手伝えばいいんでしょうか?」

 経緯はどうあれ最終試験までこぎつけたのは、今日がダメなら故郷に帰ると決めていた咲空にとってありがたい話だ。色々と変わったところはあるが、慣れたらいい職場になるのかもしれない。そう思っていたのだが――タイミングよく扉が開く。そして現れたのは。

(えええ!? イケメンがきた!?)

 すらりと背が高く、足は長く。外国から来たのだろう、透き通った白い肌に緑色の瞳。とどめはさらさらのブロンドヘアー。俳優やモデルがここに現れたのかと思ってしまうほどの英国風イケメンがやってきたのだ。
 彼はソラヤに入るなり、咲空をちらりと見た。目が合うことさえ罪悪感を抱いてしまうほどに容姿が整っている。イケメンは視線まで攻撃力が高い。

「いやあ、お待ちしていましたよ。はるばるようこそ下界へ」

 それに対してアオイが挨拶する――のだが。

(ようこそげかい? 外科医?)

 イケメンで浮つきかけた心にもばっちりと響く、不思議な単語。違和感を抱いたのは咲空だけらしく、イケメンは表情一つ変えずにカウンター席に座った。

「まだ到着したばかりだ。この酸素濃度に適応できていない」
(酸素濃度? なんのことだろ)
「それは大変。じきに慣れるますよ、ンノノスモ茶用意してますのでどうぞ」
(ゲロマズ飲み物再登場するの!?)
「ありがたい」
(え、飲むの……?)

 会話についていくことのできない咲空は、置物のように固まって、二人の会話に無声のツッコミを入れていくだけ。特にイケメンは、表情があまり変わらないのでクールな印象があり、『そのお茶不味いですよ』なんて話しかけることはできないオーラを纏っていた。
 渡されたンノノスモ茶をイケメンはぐいっと飲み干す。

「これは良い。抽出法にこだわりがあるのか?」
「ありがとうございます。新鮮なンノノスモを使うようにしています」
「ふむ。もう一杯もらおう」

 あまりの不味さに飲めなかったお茶を、吹きだすどころかおかわり要求している。ここにいると咲空の味覚がおかしい気さえしてしまう。
 イケメンが二杯目のンノノスモ茶を堪能している間に、アオイが咲空に話しかけた。

「ということで、サクラちゃんの試験はこちらのお客様の観光案内をしていただくこと。お客様に満足してもらえたらクリアです」

 満足と言われても。咲空はもう一度イケメンを見る。ンノノスモ茶二杯目は飲み終わったらしいがその顔つきは険しく、咲空と目が合うなり、整った緑色の瞳を鋭く光らせていた。

「……無理だろうな」

 そしてこの一言である。

「どうでしょう。試してみないとわかりませんよ」
「いや、無理だ。もはや北海道の人間たちは我々のことを忘れようとしている。このまま力を失う前にすべてを消すべきだ。改めて地上を作り直し――」
「ちょ、ちょっと待ってください。作りなおすって、何の話ですか!?」

 咲空が訊くと、イケメンは「そんなことも知らんのか」とため息を吐いた。

「信仰のなくなった土地など作り直した方がよいに決まっているだろう。我々の力が完全に失われる前に、人間を滅ぼせばよい」
「追い出す? 信仰?」
「はい。みんなに信じてもらうのって大切ですから」

 会話にまったくついていけない。最終試験が始まる前から転んでいる状態だ。困惑している咲空のためにアオイが説明する。

「このお客様にご満足いただくか、だめなら人間が滅ぼされる。そういう話ですねぇ」
「人間が滅ぼされるって冗談ですよね? そんなことできるわけが……」
「まさかー。簡単に滅ぼせちゃいますよ。だって、彼は――」

 にっこりと、アオイの唇が弧を描く。その隙間からぽつり、と落ちた言葉。

「蝦夷神様ですから」

 神様。もちろん知っている単語ではあるのだが、それは目の前にいていいのだろうか。疑いながらイケメンを凝視する。後光が差しているとかきらきらと輝いているとか、そういったものはなく、ただのイケメンである。手を伸ばせば触れそうな気がする。イケメンは不快だとばかりにこちらを睨みつけているので、触ろうものなら怒られそうだが。
 ともかく。神様という存在がこうして目の前で可視化しているというのは信じがたいことである。

「……ただのイケメンですよ?」
「確かに。でも中身は蝦夷の神様です。神様はたくさんいますが、彼は災いを知らせる黒狐さんです」
「耳も尻尾もないです……っていうか人間そのものなんですけど」
「あはは。見かけに騙されちゃうタイプですね、さてはイケメンに弱いとみた。でもこれは人間の姿に擬態しているだけです。その方が色々と都合がいいので」

 咲空は頭を抱えた。いくら言ってもアオイは、このイケメンを神様だと言い張っている。これは夢なのかもしれない。神様が出てくる夢だから、夢を占えばいい内容が出るのかもしれない。
 そもそも蝦夷神様って何だ。初めて聞く。アイヌの人たちが様々なものに神様が宿ると信じていたという話は聞いたことある、が咲空はアイヌではないので授業でさらりと習った知識のみだ。

 そのやりとりを見ていた神様らしいイケメンはわざとらしくため息をついた。

「やはりだめだ。この大地に住む者たちは我々のことを忘れている。彼らが享受する恵みは誰から与えられたものであるか、それを忘れているようでは未来などない――人間は一度滅ぼすべきだ」

 最悪なことにこの神様は、人間を滅ぼすと宣言している。となると神様というより破壊神というべきなのだろうか。咲空にとって非現実的な単語が連続し、思考は大渋滞を起こしていた。どれだけ考えても理解が追い付かない。承認待ちの書類がたくさん届くけれど書いてある文字が一切読めなくて判子を押せない、そんな状態である。

 その間にお客様の相手をしていたのはアオイだった。苛立つ様子のイケメンをなだめている。

「物騒な話ですね。せっかく擬態して下界にいらしたんですから、色々と見てから決めてもいいと思いますよ」
「見たところでどうなる。信仰が失われているのは確かだろう。今すぐ滅ぼすべきだ」
「それは否定できません。でも、ひとたび人間に手を出し、ウェンカムイとなってしまえば戻れなくなります」

 「それに、」とアオイが続ける。その手は月寒あんぱんタワーに伸びていた。

「人間に擬態しなければわからないもの、味わえないもの、たくさんありますよ」

 淡々と告げながらビニール包装を外した月寒あんぱんを一口。その表情に緊張感は欠片もなかった。

 イケメン風破壊神は唸る。どうやらアオイの言葉は彼の痛いところをついていたらしい。そして咲空へ視線を戻した。

「お前が北海道を案内するのか?」
(嫌です。帰りたい)

 内心で答えは出ているものの、じろりと睨まれては言うに言えない。迷っているうちにアオイが答えた。

「彼女は人間ですよ。名前はサクラちゃんです。人間代表の彼女に、今の北海道を案内してもらいましょう」
(代表? 嫌です)
「……仕方あるまい。その遊びに付き合ってやろう」
(ええっ……遊びじゃないです、仕事です、嫌です)

 イケメン破壊神は嫌そうな顔をしていたが、咲空だって嫌である。生命の危機をひしひしと感じる。何か一つ間違えてしまえば人間が滅ぼされてしまうのではないか。咲空の肩に人間たちの未来がかかっているのだ。就労に責任はつきものだが、それにしてもこれは重過ぎる。こんなことなら大通で帰っていればよかった。ソラヤに来なければよかった。

 外の雪なんて目じゃないほどに凍り付いた顔をする咲空だったが、アオイはにこにこ満面の笑みだ。

「これは試験なので僕も同行します。安心ですね!」

 アオイは食べ残っていたあんぱんを口に詰め込んで、コートを取りに奥に引っ込んだ。

 もう一度、破壊神を見る。どこから見ても人間。目の保養になりそうな完璧すぎる英国風イケメン。狐の耳も尻尾もない。言われなかったら神様なんて思わないだろう。そもそも神様なんて信じてなかったのだから。

***