女が来た途端、白い子供はムクゲの頬の横に持っていっていた手を、さっと下ろしてしまった。
「とっても探しましたのよ。さあさあ早く戻ってくださいな。それとも違うお部屋にしましょうか」
 若い女はムクゲの存在などまるで見えていないかのように振る舞って、白い子供の肩を掴んで捲し立てた。
「そうね、どこでもいいわね。どこでもいいわ。早く行きましょう、早く行きましょう、早く、早く、ほら早く行きましょう、ねえ」
 女が急かして白い子供の手を掴んで引っ張った。その手が運悪く子供の右手で、傷に触れたらしく、再び子供が痛みに小さく呻いた。
 その小さ過ぎる呻き声を女は耳聡く聞き取って、急かしていた足を止めて驚いた表情で白い子供を振り返った。
 女は子供が痛がっている、自らが掴んでいる白い手を、自分の目の前まで持ってきて、傷をその目で確かめた。
「あら、手を怪我しましたの、血が出ていますわね」
 女は子供の白い手の傷をまじまじと見詰める。
 そしてその後、白い子供の顔と手の傷とを交互に見遣った。

「……素敵。私にも舐めさせてくださいまし」

 女はどこか嬉しそうに子供の傷付いた指を口に含んで、白い子供の赤い血と形の良い手を舐め始めた。白い子供は、手を舐められるがままに女に預ける。特に何の感慨も無いような表情だった。
 しかし、ムクゲには、少しだけ不思議そうな、それでいて悲しそうな、そんな表情にも見えた。今にもその色硝子のような目から、透明硝子のような涙が溢れてくるのではなかろうかと思った。
 だが、ムクゲの予想に反して、白い子供の目からは涙は溢れてこず、ただひたすら黙って、人形のように、女にすべてを任せているだけだった。
 ムクゲは、その場景を逃げもせずにただ突っ立って見ているだけしかできなかった。
 真っ赤な花を付けた真っ白な子供は、いつまでもそこにいるムクゲへと、何を思ったか、ゆっくりと目を向けた。
 ムクゲは、またその恐ろしく綺麗な瞳をその目で見ることとなる。身体が瞳で縛られたようになった。
 ……目が合うと白く綺麗なその子供は、また至極緩やかな動作で。
 目を伏せるように細め、紅唇を僅かに引き延ばして、頭を一寸傾げながら、傾げた際に口にはさまった髪の一房もそのままに、
 
 くらり、
 
 と、周囲の何もかもを暈かすような笑みを、ムクゲへ向けて、浮かべて見せた。
 ムクゲはそれを目に映された時、自分の中の恐怖がいとも容易くひしゃげてしまったのが解った。
 その笑みはまるで花が綻んだかのようで、それでいて灼けるような熱さを孕んでいた。
 微笑んだ白い子供は危うく名匠の絵画や彫刻のようにも見えて、ムクゲが今まで目にしたどんなものよりも美しく蠱惑的に見えた。
 これほど、綺麗なものは見たことがないと心から思わされた。
 屋敷中から溢れんばかりの赤色の火種は、たしかにこの子供だとムクゲは確信を持つ。
 ……じ、と軒先で炭になった林檎の最後の燃え滓が、静かに燻った音がする。
 まるで、自分の身が炙られてしまったかのような熱さがムクゲの中で沸き起こった。

 ムクゲは遂に、自ら白い子供の方へと手を伸ばした。中途半端に浮かんでいた片足の踵は、本来向かおうとしていた方向とは正反対に、子供の待つ方へと足を追いやって、退路を断った。
 白く綺麗で恐ろしい子供が、手を舐められながらムクゲをじっと待っている。
 ムクゲの指先が、いよいよ子供の白にきらめく髪に触れようとした。
 しかし。

「何やってんだい!」

 屋敷の奥から、また女の声が響いてきた。
 ムクゲが驚いて見遣ると、今朝方花市に花を買いに来た背の高い女だった。
 子供の手を舐めていた若い女も、さすがに口を離して、今やって来た女の方へ、
「あらネェさん」と顔を向けた。
「見付けたんなら早く連れてお行きよ。心配するじゃないか」
「うふふ、ごめんなさい。でも見てくださいな、ほら」
 若い女は、掴んでいる子供の手を引っ張って、目の前の年上の女へと見せ付けた。
 子供の白い手に付いた傷は、ずっと舐められていたので固まることができずに、血が尚も止めどなく傷口から流れ出していた。
 それを見た背の高い女は、「おや」と声を上げて、軽く驚いたような表情を見せた。
「血が出てるじゃないか。大変だね」
 背の高い方の女は、若い女の手から子供の手を引き取って、またしげしげと眺める。
 眺められている間にも、子供の手からは血が流れ出続け、赤い細糸の線を作って白い肌を伝って、真っ赤で豪奢な着物の上にぽつぽつ落ちて、朱色を飽和させながら着物の生地に滲んでいた。
 背の高い女は、その流れ落ちた血もその目で窺う。
 そして一息ついて、やっと口を開いた。
「赤が綺麗だから、手当はしないでおきましょ。……あぁ、こんなことなら赤の着物じゃなくって、白の着物にしておくべきだった」
 心底惜しそうにそう言うと、やはり自らも、手にしている子供の手の傷口を口に含んだ。しかし同じくして着物へと滴り落ちる子供の血を見て、不満そうな顔をしてすぐに口を離した。
「ああ、勿体無い。矢っ張り今からでも着替えましょうか。ああそうしよう。白なら本絹の良い着物があった筈だよ」
 背の高い女がそう言うと、若い女は途端にはしゃいで「いいですねえ! ええ、ええ、そうしましょう! きっと、きっととっても綺麗だわぁ」と騒ぎ、白い子供の顔を引き寄せて唇に口付けた。
「ふふふ、お前は本当に綺麗ねえ。じゃあ早く行きましょう、折角だから純白のあの着物がいいんですもの、さあさあ、早く! 早く着替えましょう!」
 若い女は子供の肩を掴んで急かして、足早に歩き出した。背の高い女もそれについて一緒に歩き出す。
「焦るんじゃないよ。この子こんなに着込んで歩き辛いんだから」
「だって血が固まってしまうわ」
「別に良いじゃないか」
「でも別に転けても良いわ。きっと痣も擦り傷も綺麗よ」
「だったら後でお前が付けてやればいいさ」
「あら嫌よ、殺してしまうわ」
「これは殺しても綺麗だよ」 
 二人の女は白い子供を屋敷の奥へと連れて行く。
 楽しそうに談笑する声は、白い子供を挟んで、声が届かなくなるまで絶え間なく響いていた。
 二人に連れて行かれる際、白い子供は、花屋の男の顔を横目で一瞬だけ、目を遣った。しかしそれにムクゲが反応する間もなく、女に背を押されたので白い子供もまた、ふいと顔を背けて女達と一緒に屋敷の奥の方へと歩いて行ってしまった。
 その白い子供が、顔を背け、振り返り屋敷の奥へと歩き出す姿が、ムクゲの脳裏に妙に焼き付いて離れなかった。
 ムクゲを見ていたあの恐ろしい瞳は長い睫の奧を光らせて。赤く豪華なだけのちぐはぐな着物を、細い身体の白さを栄えさせながら、あたかも優雅に纏い込んで。歩き辛そうな衣擦れの音さえも艶やかに。殆ど光りかがやく生糸のように艶めく髪を揺らして。
 そして唇には若い女の接吻で移り付いた紅がそのままになっており。 その口紅の下には、まだ、きっと、自らで手の傷を舐めた際に擦り付いた、赤い赤い、なまめく、あの子の血が……。
 白い子供はとうに屋敷の奥へと行ってしまったというのに、ムクゲは長いことその場に立ち尽くして、動かなかった。まるで惚けてしまったかのように棒立ちになって、あてられた熱の余韻に浸っていた。
 ムクゲの左の肩の上には、白い子供が残していった血の染みが残っていた。
 足下には落として散った薔薇の花弁の溜め池。
 この屋敷を訪れた時は、屋敷に尽くされた赤色の数々を、度を超した豪奢であれどもどこか美々しく見えていた。
 それなのに、今やムクゲの目に映るそれらは、もうその足下に広がる泉の様な赤色も屋敷の豪華絢爛過ぎる赤色も、その時に感じていた生彩たる色のようには、どうしても見えなかった。

――成るほど、『まつりごと』。

 ムクゲは今朝方に女に言われた言葉を思い出し、納得する。
 花屋の男は何かも知らないので、理解こそできなかったが、自分でも解ることが一つだけ存在していた。
 あの子供。あの子供だ。何やらあれを崇めたい気持ちのような、それこそ祭りの最中の高揚感であの子供に触れたいような、そんな気持ちに捕らわれてしまっていて、どうしようもなくなってしまっていることだけが、ムクゲにも解った。解るのは、ただそれだけだったが、最早今のムクゲには十分だった。
 ムクゲは今一度屋敷を見渡す。
 相変わらず赤ばかりの、贅の限りを尽くし切った異常な屋敷だった。 しかし、初めはあやかし屋敷かと怯えるほどであったのに、今度はなぜだかまったく恐怖すら感じない。
 それどころか反対に、屋敷の造りも色も、何もかもがやけに惨めったらしい、下卑たものに見えていた。
 ……屋敷の奥から、再びあの陽気な声々が響いてきた。
 ムクゲは、左肩の赤い染みを手で押さえ、その湿りの感触を手の平で感じながら、項垂れた。
 ムクゲの目はすでに、屋敷の炎に焼かれてしまっていた。あの燃えるような恐ろしい子供以外の何もかもが、美しいものだと認識できない。
 ムクゲは足下で、まだ辛うじて形を成していた薔薇の花を見付けると、気持ち任せに踏み潰した。草鞋の裏で、地べたになすり付けられたやわらかい赤が、血潮のように広がった。
「あれには、赤が最適という訳か……」
 赤でなければいけないのではなく。
 この世に在る色では最早、あの子供に間に合わないのだ。
「しかし」
 これほど贅を尽くした豪華絢爛な赤も、あの子供の前ではさも惨めそうで。
「……それでもお前達は、厚かましくもあれを装飾できるのだな」

 羨ましい限りだ。

 そう一言零したムクゲは一人、屋敷へと踏み入った。
 その足取りは一欠片の躊躇いもなく。
 ただ惹かれるがままに、火色の中へと身を投じたのだった。

***

 ムクゲが屋敷の中へ吸い込まれていったそのすぐ後、屋敷に茶色い枯葉がひらひらと落ちた。
 その茶色が白い玉砂利の上へとつく。
 しかし目の前の屋敷は赤くはなく豪奢でもなく。
 在るのはひどく朽ちた廃屋敷。
 燃えるような赤色といえるものは、庭先に迸った異国の花塊、……ただひとつだけだった。




【了】