あれからオフィスで、気休め程度にメイクをしてから監査会場に出勤した。
その時には、もう既に桐谷さんは仕事を始めていた。

「桐谷さん、お早いですね。何か、問題でもありましたか?」

同じように出勤して来た会計士が驚いたように声を上げている。そのスタッフだってかなり早い方だ。それなのに上司が先に来ていれば驚きもするだろう。

「いや、朝早くに私用で家を出たから。そのままここに来たんです」
「そうだったんですか」

”私用”

なんだか、桐谷さんと私とで秘密を共有しているみたいで勝手にドキドキとする。そして、桐谷さんがいつもと違ってみえる。別に何が変わったわけでもないのに、なぜか距離感が近くなったみたいで。これまでとは違う種類の緊張が胸に広がった。

この日も朝から監査が始まった。監査も中盤に差し掛かり、会計士たちの表情に焦りが滲み始める頃だ。毎年のことだから、だいたい予測がつく。会計士たちがピリピリし出すと、私アシスタントも何となく神経を使う。そんな中で、桐谷さんがその表情を変えることはない。トップに立つ人が焦ったり取り乱したりすることほど、迷惑なことはない。
この現場で、誰よりも多い業務量と誰よりも重い責任を負っているのは間違いなく桐谷さんだ。

疲労も焦りも、そんなこと少しも見せずに、ただ恐ろしいスピードで処理している――。

「小森さん、お願いしてあった資料、昨日出さずに帰ったでしょ」

まずいまずい。ついつい桐谷さんを見つめてしまった――。

仁平さんの声で我に返り、慌てて視線を戻す。