とうとう美濃に入った。叔父の住まいまで、あと少しとなる。

 が。

 ここ両日、才四郎とまともに話をしていない。必要最低限の会話はあるがそれ以上は無い。前のような他愛のない雑談も全く無くなってしまった。彼に恥をかかせてしまった上に、深く傷つけてしまったのだ。自業自得である。彼の怒りも相当なものだろう。彼から話しかけてくることもなく……こちらからも特に何か言うこもとなく。私はただ静かにその時を待っている。彼に始末されるその時をただひたすらに待ち続けているのだ。

 これは思っていたより、辛いことだ。

 人気のない山の道を行くとき、宿でふと二人きりになった時。いまこの時かと殊更身構える。でも彼は刀を抜いてこない。大概無表情ではいるが、時折なにか言いたげな、悲しそうな表情を浮かべている。私は湖畔の彼女ではない。彼もそれを重々理解したはずだ。なのに。まさか迷っているのだろうか。迷うことなどなかろうに。

 いつ斬られるかわからぬまま、このような日々がこれ以上続いたら、そう遠くないうちに私が参ってしまうであろう。

 今日も日が暮れ、夜が来る。

 今宵も生きながらえてしまった。一人宿の布団に伏し、天井を見上げながら思う。あの夜の得体の知れない薄暗い感情を思い返すと、いまこの時でさえも飲み込まれそうな恐ろしさに身震いがする。心まで人なるざるものになってしまいそうな嫌な心持ち。 遊女の件から、二日目の夜、私はついに心を決めた。


 ーー自分でその日を決めよう。


『今宵宿をとる前に、行きたい所があるのですが』


 翌日の申の初刻、私は才四郎に話しかけた。
 久方ぶりの雑談に驚いたように、そしてなぜだろうか。思いもよらぬ、暗殺の機を得れたからであろうか。心なしか少し嬉しそうに、『構わない』と才四郎は請け負ってくれた。
 昨日、宿の風呂場から上がった際に、旅の僧侶が話しているのを聞いたのだ。宿から東に行った、小高い山の破れ寺の裏からみる桜が、まさに夢のごとく美しかったと。すでに桜は満開の時を迎えて、霞が重さに耐えかねて、雨に変わるかのように、散りに入っている。

『隠れた名所だそうです。そこで少し私的な用事を済ませたいので』

 私の本名は吉乃という。
 父と母が吉野の桜を兄と見に赴いた際、このような心根の美しい人に育ってほしいと思い、女であればこの名前をつけようと決めていたと聞いた。最期に桜が見たい。それも夜の桜を。

 私は彼に件の場所を説明し、案内をお願いした。

 日暮時、山の街道を逸れ、細い獣道を行くと程なくして、欠けて崩れた石段だったものが姿を現した。それを登ると、今はもう原型を止めない寺であった建物が姿を現す。夕闇に紛れておどろおどろしい雰囲気だが、いまからそちらの世界へ向かう私には、別段どうとないように思えるのが不思議だ。才四郎に手を引かれて、寺の裏側へ回る。

 そして……目の前に広がった、その景色に思わず感嘆のため息が漏らした。

 すでに辺りは暗い。これ程までに朽ちた寺の裏にも、桜ははらはらと白い花弁を散らしている。眼下には小龍のように、勢いのある川が流れている。川面は月の光を反射して、鱗のように時折きらりと光る。奥に広がる黒黒とした山々。その山肌をも白く染め上げ、桜は霞のように、どこまでも広がっている。

「隠れた名所か。これ程とは。幻想的で綺麗だな」

 私の隣の大きな白い岩の上に乗り、才四郎もため息をつくようにつぶやいた。そして下に立つ私を見下ろす。

「で、用事ってのは?」

 私はそっと、彼の左、破れ寺の影をみやる。ちょうど小望月であろうか。明るい月明かりに照され、輝く岩場に一瞬闇に交わらない濃い影がちらつくのを目の端に捉えた。やはり目附は一人。
 私は黙って隣の才四郎を見上げた。私が全て知っているなどと思いもよらぬはずの彼は、私のただならない雰囲気を感じ取ってか、次第に表情が固くなる。

「才四郎。ここでお別れです。あなたはここで、私の首を打って下さい。あなたには今の領主様の元で、隊を続けていくのは難しいやもしれません。望むのであれば、私の首の検分の隙に乗じて、お逃げ下さい。私の見立てでは、目附は一人。あなたの実力なら容易いはずですから」


 才四郎が息を飲んだのがわかった。暫く痛いくらい緊迫した静けさが辺りを包む。


 と。観念したかのように、彼がつぶやいた。 声が掠れている。

「いつから気づいてた。俺がお前の暗殺の任を受けてると」

「あなたと、初めて会ったときでしょうか」 

 初めて出会ったとき、こんな小娘を? とでもいうような、彼の動揺をみれば明白だったが、それは言わないでおく。実際は領主様から命が出て、侍女を引き離されたときに、殺されるという確信に似た思いはあったのだから。私はいままでの彼との旅を思い出した。なぜか楽しい気持ちになり、私は微笑みながら彼を見上げた。

「あなたには面倒な仕事であったと思いますが、私には格別に楽しい旅、まさに冥土の土産となりました。礼を言います」

 私は目を閉じた。震えている自分に気づく。私はぐっと身体に力をいれ、それを隠す。

「忍のあなたに言うのは、おかしな言葉かもしれませんが、くれぐれも無理をなさらず、命を粗末にせず、出来るなら長生きしてください。戦の先にある、穏やかな世がどのようであったか、教えて欲しいのです。私は先にあちらで待っています」

 ごうと風が吹き、桜の花が風に舞った。

 彼の顔を最期に見ておきたい。私はそっと彼を見上
げた。
 あのような振る舞いをしたことを棚に上げ、手前勝手ではあるが……。彼は暗殺者であると知り、毎晩のあのような振る舞いを横で聞いていながらも……なぜだろう。私は彼のことを……嫌いになれないのだ。今の言葉も本心から出たものだ。死地へ向かう旅であることを、しばし忘れてしまうほど、楽しい道行きだった。そのことについて気遣いをくれた才四郎には感謝の念しかない。
 そしてその優しい彼を自分の思慮の浅さで傷つけてしまったこと。ひたすらに申し訳なく思うばかりである。

 どうかこの先、彼が想いのこどもといち早い再会を果たすことができますように。

 私はそう心に願いながら。もう一度彼の横顔を見上げた。そして。刑を促すように小さくうなずいた。

 才四郎は無表情のままだ。何も言わずただ黙って私を見下ろしている。その心に何を思っているのかわからない……。私はその彼の眼差しを心に刻み込むように目を閉じた。月に向かって、彼より一段低いこの岩場でうつむく。彼の前に頚をさらしたような形になる。
 今宵は望月に近い明るい月が出ている。その影は白々と辺りを照らしている。桜も白く咲き誇り、月明かりを乱反射させている。手元が狂うこともないだろう。

 怖い。

 怖いけれど一瞬のことだ。どこかに売られ体も心も壊されてしまうより、ずっとましな最期に違いない。才四郎は腕も確かだ。一思いに打ってくれるに違いなかった。風が止んで、音の消えた空間に、ちりと冷たく彼の刀の鯉口が、切られる音がした。 



――来る。


「すまんが、もう少しこちらへ寄ってくれ。手元に明かりが足らん」

 思いもしなかった言葉に、私は目を開け驚いて彼を見上げた。こんな明るい夜なのに光が足らないとはどういうことなのか。でも彼は表情なきまま淡々とそう告げる。動くより他ない。私は一歩彼の方へ寄った。


「もう少しだ」



 もう一歩彼の方へ寄る。その瞬間。ぐるりと世界が反転した。



 首をはねられたときは、しばらくは意識が通っていると言われたのを思いだし、途端私を猛烈な吐き気が襲った。戻すものさえない状態なのに、なぜ? 先ほど寺の端、目付けの黒い影が動いた辺りから怒号がした。私の遠のいていた意識が急に戻る。

「おい、俺の首に手を回せ! 早く」

 突然急かす才四郎の声に私は顔をあげた。すぐ目の前に才四郎の顔がある。私はどうやら彼に抱えられているようであることがやっと理解できた。

「なぜ」「早くしろ!」

 驚く速さで、周りの景色が後方へ過ぎていく。寺の裏の雑木林をかけ降りているのだと気付く。刹那、才四郎がいつかの山賊退治の時にやったように、足を枝にかけて、木上に飛び上がった。ぐらりと身体が揺れ落ちそうになり、はからずも彼の首に腕をまわし掴まってしまった。

 その途端、下から空を切る音がして、何が飛び、彼のすぐ横の枝に突き刺さる。一瞬だけみえたそれは、木の下から放たれた追手の矢だった。
 気を抜くと、振り落とされそうな勢いで、彼は木々の枝の上を器用に飛んでいく。その下からは、木の葉を踏み散らし追手が迫っている。

「降りるぞ」

 才四郎が、私に言うが早いか木から飛び降りた。体が奇妙に浮く感じがして思わず腕に力が込もる。そのとき、がくんと体に衝撃が走る。彼は下まで降りず、幹の中ば辺りに生えていた太い枝に、片手を伸ばし、ぶら下がったのだ。

 私たちが降り立つはずの場所の幹に、鋭い音を立て手裏剣が刺さる。

 まるで手裏剣が刺さるのを知っていたかのように、才四郎はその音がすると同時に枝から手を離し着地した。そのまま懐に手を入れて何か取り出す。
 棒手裏剣がちらりとみえる。振り向き様、手裏剣を投げたままの態勢の追手の足元に投げつけた。もんどりうって追っ手が倒れる。使い手が撃てば、薄い木板なら貫通させると、叔父に聞いたことがある。たまったものではないだろう。

「才四郎、貴様、やはり」

 追手の悲痛な声が聞こえる。その声を背に、なにも言わぬまま、才四郎がまた木上に飛び上がった。驚く早さで山を降りて行く。私は何も言えず、ただただ彼にしがみついているしかない。

 今宵逝くはずであったのに。まさか死に損ねるなど考えてもいなかった。

 私は一体この先、どうすればよいのであろう。心が先の見えない不安に黒く満たされていく。