「え? 前野涼が念力使えるってこと?」


数分前に起きたこと、ついでに昨日の駐輪場のことも話し終えると、舞佳は千切れた肩紐の切れ目を触りながら言った。


「いやそこまで言ってない。 でも、このタイミングでそんな風に千切れることある? こんなの一生に起きるか起きないかでしょ」

「確かにね」


わたしも舞佳と同様に千切れた部分を見る。
姉のお下がりで年季が入った鞄だけれど、千切れる寸前なら、縫い目を見て分かるくらいには解れてきたりすんじゃないだろうか。


「それに、昨日のもなんだったんだろうね」

「うーん……」


声を掛けた途端あんな風に飛び上がってすぐさま逃げられてしまったら、やはり何かやましい事をしようとしてたのではないかと疑うしかない。


「担任に目が悪いとか言って席変えてもらったら?」

「わたし春の身体測定で視力検査2.5だったけどいけるかな。 測ったの担任だったけど」

「いや無理じゃん」


わたしは思わずため息をつく。 たぶん、本当に来年になるまで席替えなんて行われないだろう。

なぜなら、去年もわたしはあの担任のクラスにいたけれど、あの人はパリピ系女子に席替えをお願いされても「席が変わると、出席取るときに混乱するから」という理由でやりたがらない。

たぶん、自分の受け持ったクラスの生徒でさえ顔はうろ覚えなんだと思う。 

もう少し真面目にやってほしい。


「鞄、代わりのあるの?」

「お姉ちゃんが使ってないリュック貰うよ」


わたし、やっぱり前野くんに何か悪いことでもしたんだろうか。

でも、それだったら、サドルを取ろうとか鞄を念力で千切ろうとかするよりも直接文句を言ってほしい。


「まあ、これでも食べて元気出してよ」


舞佳は鞄の中から鳥のイラストが描かれたアーモンドチョコのお菓子を取り出して机の上に置いた。

またこの人は、わたしの好物をしっかりと突いてくる。

ありがとうと言ってお菓子に手を伸ばした時、舞佳が「あ、思い出した」と言った為わたしは手を止めた。


「噂で、前野涼に話し掛けたら彼氏彼女に振られるんだって」

「それも念力かな」


その時、廊下の方から「あ、いた」とこちらに向かって言う声が聞こえた。

わたしと舞佳はその声が聞こえた方へ向いて、そして同時に「げっ」と苦い顔をする。


「羽白、なんでこんなところ居るんだよ」


そう言って教室に入り込んできたのは、帰ろうとしていたのであろうバックパックを背負った相沢だ。

いつも思うけど、登山に行くわけでもないのになんでそんなデカいものを背負ってるんだろう。


「ちょっと。 こんなところとは失礼ね」


すかさず舞佳が先ほどよりも冷めた声で言う。 

それでも相沢はなにも気にする素振りも見せず、「あ、美味そう」と言ってわたしより先に舞佳のアーモンドチョコを一つ食べると、バックパックを背中から下ろして中から例のチケットを取り出した。

「あ、山本もいる? 4組の前園がDJやるイベントのチケット」

「へえ、そんなイベントあるんだぁ。 いらないかな」

「なんでだよ」


相沢はなぜかそのままわたしの隣の席の椅子へ座る。

いや、なんで座る。


「行ったら行ったで、楽しいかもじゃん」

「だって興味ないもん。 ね〜シロ」

「うん」


相沢は「冷えなあ」と言いながらも、平気な様子でいる。
どうしてそこまで必死に、その4組の前園くんのDJイベントにわたしたちを行かせたいんだろう。

こんなに躍起なって人を誘わないといけないほど、そのイベントは人気がないのだろうか。

すると、相沢は時計を見て「やべ、バイト」と小さく呟いて席を立った。


「まあ、気が向いたらでいいからさ。 チケット、渡しておくわ」


そう言って相沢は舞佳の机の上にガラの悪そうなイラストが印刷されたチケットを置いて、「じゃあな」と足早に教室を出て行った。


「なにあいつ。 ゴミ置いて行ったんだけど」

「それは言い過ぎ」


舞佳の毒舌に少し笑って、わたしは机の上のチケットを手に取る。


「それ、いつやるの?」

「今月の27日。土曜日だね」

「ふうん」


舞佳は心の底から興味が無いようで、手元のスマートフォンを弄る。

このままここに置いておいても、舞佳は言葉の通りこのチケットをゴミ同然にゴミ箱に放り入れてしまうだろう。

別にそれでもいいのだけれど、それだとあまりにもすでに顔も覚えてない前園くんが不憫に思えたので、わたしは鞄に仕舞い込んだ。

それから、舞佳の家の門限に間に合うギリギリまで話して、帰るのが惜しいなと思いながら教室を出た。


「はあ〜、今どき門限とかだるいよね」

「中学の頃よりは時間遅くなったじゃん」

「て言っても7時じゃん。 部活がある日はまだ緩いんだけどなあ……今日親に部活あるって嘘ついとくんだった」


そうどこか悔しそうな表情で舞佳は言う。


「……それに、シロと帰り道も一緒じゃないから、前よりも門限の時間が早く感じるよ」


昇降口で靴を履き替えていると、ふと舞佳が言った。

わたしは高校生になると同時期に、父親の体調不良を機に舞佳が住む町から違う町へと引っ越した。


「でも、二駅分くらいでしょ」

「そうなんだけどさ」


舞佳は履き替えたローファーの爪先で地面のコンクリートを叩く。

当時、引っ越すことになった話を高校受験を合格してから舞佳に伝えたけれど、あのときほど寂しそうな表情をした彼女はそれまで一度も見たことがなかった。

それでも舞佳は『でも同じ学校だから、今までと何にも変わらないね』と笑って言ってくれた。

けれど、舞佳と一緒に電車に乗って、そこでも色々な話が出来たりしたら楽しかったんだろうと思う。

昇降口をふたりで出ると、まだグラウンドの方から部活をしている人たちの声が聞こえてくる。


「帰り、気を付けてね」

「シロもね。 今日、話してくれてありがと」


わたしが引っ越してから、舞佳と帰る道は真逆になってしまって一緒の帰り道を歩くこともなくなってしまったけれど、相変わらず短い言葉だけで別れるのは変わらない。

「じゃあね、また明日」とお互いに言って、校門へ向かう舞佳の背中を少しだけ見送ってから、わたしは裏の駐輪場へと向かう。

今度、休みの日に舞佳とどこか遊びに行こう。

映画を観に行くでもいいし、ただお昼ご飯を食べにいくだけでも、新作のフラペチーノを飲みに行くだけでもいい。

誘う前に一応、公開中の映画を調べてみなきゃ。

お昼ご飯だって、これまで行ったことないお店に行ってみてもいいかもしれない。

そんなことを考えているだけで頬が自然と緩んでしまって、わたしは誰が見ているわけでもないのに咳払いをして口元をきゅっと結んだ。

肩紐がひとつ切れた鞄から自転車の鍵を取り出して、駐輪場に入る角を曲がったとき、わたしは足を止めた。

「うそ……」と小さく呟く。

また、前野くんがこちらに丸まった背を向けた状態で立っている。

わたしはもう昨日のように壁の陰に隠れることもなく、ただその背中を見つめた。

ほんの数秒までとはまるで真逆の気分に落ちているのが自分ではっきりとわかる。

昨日、今日といい一体なんだっていうの。

……もうどうなってもいい。 
鞄の肩紐も切れたことだし、わたしにもう怖いものなんてない。

何かひとこと、言ってやろう。 言うこと思いつかないけど。

わたしは一歩踏み出して、丸まった背中に声をかけようとした。

けれどその瞬間、前野くんが腰を屈めて重たそうに何かを持ち上げたのを見て喉まで掛かった言葉を飲み込んだ。

え……自転車?

前野くんに意識が持っていかれていたせいで周囲が見えていなかったけれど、朝には横一列に立てて並べられていた自転車たちが見事なまでに横倒れになっている。

うわ……最悪……。

時々、こういうことになっている時がある。 
台風並みの突風が直撃するか、はたまた誰かが思い切り蹴飛ばしたりでもしないとこんな風にはならないんじゃないだろうか。

朝より台数は減っているものの、これを一人寂しく自分の自転車を救出することがどんなに虚しくて惨めなことか。

一番奥に置いたわたしの自転車だって、例外なく倒れている。

そんなことを思っていると、前野くんはもう一つ倒れた自転車を起こし始めていた。

……やっぱり、前野くんも実は自転車通学だったんだ。 昨日は徒歩で帰ったらしいけど。

しかし、どうしよう。

前野くんが自分の自転車を立て直して帰るまでここに身を潜めるのか……?

いや、それでもこの状況をただ傍観しているのも、人としてどうなんだろう。

だけど、声を掛けても昨日みたいにあんな風に逃げられてこの倒れた自転車たちを残されても困る。

風のように自分の自転車を立て直して走り出すことはできないだろうか。 

……いや、無理だよなぁ〜〜〜。


「ま……前野くん」


仕方なく声をかけると、再び自転車を立て直そうしていた猫背がビクッと震えた。

そして、こちらにゆっくりと振り返った姿を見てやはり思う。

……気まず。

声を掛けてしまったことを若干後悔する。 
だけど、この状況で逃げ出すわけにもいかない。

前野くんは一言も喋らないし……もしかして言語が違うとかいうことはないかな……ないよね……。


「……自転車、手伝うよ」


辛うじて絞り出せた言葉はこれだけだった。

前野くんとの間に自転車を数台挟んだ一定の距離を保ちつつ、わたしは横たわる自転車たちの元へ向かう。

前野くんは、わたしに話しかけられたことなど無かったことのように再び自転車を立て直し始めた。

やっぱり、この人はハナから誰かと仲良くしようとか馴染もうとかいう気持ちが微塵もないのかもしれない。

まあ、昨日みたいに逃げられないだけまだマシだと思いつつ、わたしも倒れた自転車のハンドルに手を掛ける。

そういえば、前野くんに話しかけたら噂によるとどうなるんだっけ。

……彼氏に振られるんだっけ。

わたし、彼氏いないけど。

…………。

独り身のわたしに前野くんに話しかけることでリスクを負うことは何一つないじゃないか。 

切られる鞄もない。失うものは何もない。

……もうどうでもいい。 どうにでもなれ。


「前野くんも自転車通学なの?」


失うものが何もないと気付いた人はどうしてこうも行動力が3割増になってしまうのか。

倒れたまま引っかかりあっている自転車を直しながら言うと、小さな声が聞こえた。


「……いや……バス通」


……え? バスで通ってんの?


「じゃあ……なんで自転車?」


腰を屈めた体勢のまま、前野くんの方を向くとこちらを見ていた彼と一瞬だけ目があったような気がした。

でも、すぐに前野くんは顔を逸らしたし、眼鏡と目にかかる前髪のせいではっきりと彼の視線を捉えることは難しそうだなと思った。


「……ここを通ったとき風が吹いて、倒れたから……」

「これが一度に倒れるほどの……突風?」


前野くんは一拍置いて頷いた。

わたしは「そうなんだ」と相槌を打ってみたものの、きっと嘘だろうなと頭の片隅で思う。

今日は一日晴天で、大型台風が近づいているニュースもない。 夕方になった今でも、風はほんのり肌を撫でるくらいしか感じられない。


「これ、一人で全部立て直そうとしてたの?」

「……たまたま通りかかったから……」

「へえ……」


……ちょっと待った。
前野くんの向こう側にある倒れていない5台の自転車ももしかして最初は倒れていたんじゃないだろうか。

だとしたら、それを立て直したのは前野くんだろう。

……ひょっとして、昨日ここにいたのも倒れた自転車を直していたから?

いやまさか。 2日連続で自転車が倒れているなんてことないか。

でも、仮に誰かがわざわざ蹴り倒したりしていたら?

だとしたら、あまりにも気分が悪すぎる。

わたしは引っかかり合っていた自転車をやっと離して片方を立て直す。


「もしかして昨日も、自転車倒れてたの?」


前野くんの方を見て言うと、彼は少し頷いてわたしと同様に引っかかり合っている自転車を離し始めた。

けれど、前野くんはすぐに自転車同士を外して軽々と立て直した。やはり、その姿も猫背。

……やっぱり、会話続かないな。

でも、部活組が来る前にわたしもここを出たいし、会話してるくらいならさっさとここを片付けてしまった方がいいか。

わたしは再び腰を屈めて、よいしょ、と自転車を立たせる。

なんだかこんな風に他人の自転車をボランティアで立て直していると、以前自分の自転車だけをいそいそと救出しようとしていた自分がものすごく小物に思えてくる。

それにしても、この作業って地味に疲れる。
たった2台を起こしただけなのに、どうしてこんなにも腕に疲労感があるんだろう。

だけど、そんなことを思っていても仕方がないので、再び腰を屈めて横たわる自転車のハンドルを掴んで持ち上げる。

あれ、またこれもサドルが絡まってる。
他人のものだから下手に傷付けても嫌だし……ああもう……。


「……あの、俺、やるよ」

「え?」


また絶妙な体勢を取っている時に小さな声で話しかけてきたな……と思いつつ前野くんの方を見ると、先ほどまで横たわっていた自転車たちが立って綺麗に陳列されていた。


「もうこんなにやったの?」

「え……うん」

「はやいね」


しかも、いつの間にか倒れている自転車はわたしが掴んでいる2台だけになっている。

というか、これ片方わたしの自転車じゃん。 気付かなかった。


「最後だし、わたしやるよ」


わたしは再び上手い具合に引っかかっているペダルに視線を落とす。

ああ、この重たい自転車をひょいっと持ち上げられればもっと簡単に外れるそうなのに。

そんなことを思った瞬間、ふと視界の中に影が落ちて、わたしの自転車がふわりと浮かんだ。

驚いて視線を上げると、すぐ目の前に屈んだ前野くんがいた。

屈んでいるせいか、髪が少し乱れて、その隙間から前野くんの目が覗く。

あれ、なんだか……。


「あの……それも、俺立てるから……」

「えっ、あ、うん」


身体を少し避けると、前野くんはわたしの自転車ともう一つの自転車を離すと軽々と立て直した。

すると、前野くんは気まずそうに「じゃあ……」と軽い会釈をして背中を向けた。

わたしはお礼を言おうとしたけれど、前野くんは足早に駐輪場の角を曲がってしまい声を掛けることができなかった。

歩くの早いな……というか、わたしと話したくなかったのかな。

わたしも帰ろう……と肩紐が片方だけ切れた鞄を自転車カゴに押し込んだ。

この自転車もお姉ちゃんのお下がりで、所々からキイッと軋む音がする。

どうにか卒業まで保ってほしいんだけど、怪しいなあ。

なんだか自転車に乗る気にならず、わたしは駐輪場を出た後も歩くことにした。

足元とくるくるとゆっくり回る自転車の前輪の辺りに視線を落としながら、さっきのことをぼんやりと思い出す。

……前野くん、話してみると意外と普通だったな。

こっちが何か話せばそれなりに応えてくれたし、わたしの自転車も立て直してくれたし。

何故か、ほんの少しだけ前野くんを見直したような気分になる。
勝手だし、上から目線だなと自分でも思うけど。

まあ、もう話す機会もないだろうし何でもいいか……。

そう思いつつふと視線を上げると、前方には同じ学校の制服を着た男子生徒が一人で歩いていた。



びっくりした、前野くんかと思った……。

でも見覚えのある猫背姿ではないし、たぶん人違いだろう。

だけど、このままのペースで歩いているとわたしの方があの人に追い付いてしまいそうだな。 いっその事、自転車で追い越しちゃおうか。

自転車のサドルに座ってペダルを漕ぐと、前を歩く男子生徒との距離があっという間に近づく。

車道側からその男子生徒の真横を横切ろうろした時――あれ、あのリュック見覚えが……。

……いや、どう見ても前野くんじゃん。

わたしはほぼ無意識にブレーキを引いて急停止して、後ろへ振り返った。

すると、そこには驚いた様子で硬直している前野くんの姿が。


「前野くんだよね?」

「えっ……いや……」


前野くんは酷くしどろもどろになって、一歩後ずさる。


「…………後藤です」

「後藤……」


前野くんの嘘の下手さは置いておいて、いま目の前にいる前野くんが知っている前野くんではない。


「バス、乗らないの?」

「……次のまで、時間あるから」


なるほど、自転車直してる間に乗り過ごしてたのか……。
そう思いつつ、さっきの前野くんと今目の前にいる前野くんとの違いは何かと考える。


「次のバスは?」

「……部活終わった人たちが乗るし、俺が乗ったら、みんなバスから降りちゃうから……」

「降りちゃうんだ……」


確かに、前野くんがそのバスに乗ったら色々と大変そうな状況が想像できる。

だけど、そういうの気にするタイプなんだ。 
自分が周りに与えている印象や影響なんて興味がないのかと思っていた。


「……あのさ、」


ふいに前野くんから声を掛けられ、わたしは表情には出さなかったものの内心ものすごく驚く。


「あんまり……俺に話しかけるのとか、多分やめた方がいいよ……」

「え?」

「……色んな噂が流れてるし、誰かに見られたら大変だよ……」


前野くんは、再び「じゃあ……」か細い声で言ってこちらに背を向けた。

噂が流れてること知ってるんだ。 まあ、ああいうのは嫌でも本人の耳に入ってしまうのかもしれない。

というか、もしかしてわたしはこの人のことを物凄く勘違いしていたんじゃないだろうか。

前野くんのことを“周りに興味がない”とか思っていたけれど、興味がないのだったら他人の倒れている自転車を直そうだなんて思わないし、今みたいな台詞も言えないんじゃないか。

だとしたら、わたしは前野くんにとってなんて酷い人間だったんだろう。

わたしは胸の奥がチクリと傷んで、気付くと自転車を押して前野くんの背中を追い掛けていた。


「わ、わたしも、同じ方向なんだ」

「え……?」


若干勇気を出して言うと、目元こそ見えないものの前野くんは困惑したような表情でこちらを見た。

いや、そうだよね。 話しかけない方がいいって言われた矢先に話しかけてる訳だし。

それでも、前野くんの背中を見ていたら何故か追いかけるしかないと思った。

思ったんだけど……やっぱり、沈黙。 
勢いで話しかけちゃったけれど、そういえばわたしは無口な人との話を盛り上げるスキルなんて持ち合わせていない。


「えっと……前野くんってどこから通ってるの?」


流石に沈黙が辛くなり、なるべく自然な話題をと考えたときこれしか思いつかなかった。


「……園埼」

「えっ」


思わず大きな声を出してしまい、わたしは咄嗟に口元を押さえる。


「……わたしも園埼なんだよね」

「え゛っ」


今度は前野くんがわたし以上に野太い声で驚く。 お互いに足を止めてお互いの顔を見合わせる。


「て言っても、うちは町の端なんだけど」

「う、羽白さん……中学は……?」

「へ、中学?」


気にする所そこ? と思いつつ、わたしは言葉を続けた。


「わたし、高校に入ってから園埼に越してきたから、中学は別の地区なんだ」


といっても、わたしには姉の他に4つ下の妹がいて、その子が園埼にある私立中学に通っている。

だけど、前野くんが「そうなんだ……」とどこか安堵したような声で言ったのでそれを言うのはやめておいた。まあ、前野くんがその中学に通ってたとも限らないし。


「……自転車で通うの、大変じゃない?」


意外にも、前野くんの方から話しかけてくれていることに驚きつつわたしは答える。


「まあ、距離はあるけど……実は1年の頃、バス代を浮かせる為に親と学校に黙って勝手に自転車通学してたんだよね」

「えっ」


予想通りの反応に、わたしは思わずクスリと笑う。


「結局、学校にも親にもバレちゃったんだけどね。 でも、自転車通学はそんなに苦じゃなかったから続けてるんだ」


学校に自転車通学の届けを出していないことがバレた当時、三者面談の際にそれが問題行動だとして母親に告げられた。

それと同時に、わたしのバス代ネコババ戦法もバレた訳だけれど、母親が「流石我が子」と褒め称えてくれた時はあの担任も流石に引いていた。

……って、なんかわたし普通に前野くんと話できてるじゃん。
こんな光景、舞佳が見たらひっくり返るんじゃないだろうか。

そんなことを思いながら、ふと横目で前野くんの方を見てみると、意外と背が高いことに気が付いた。

あれ……なんか急成長した……? そういえば、猫背じゃなくなってる?

わたしは前野くんの背中を見てみると、駐輪場の時よりも明らかに背筋が伸びている。

え、もしかして普段は猫背じゃないとか?

それに駐輪場の時も一瞬思ったけど、前野くんはこの重たそうな前髪と眼鏡を外したら意外とかっこよかったり……いや、流石にそんな漫画的展開はないか……。

いつの間にかわたしはまじまじと前野くんのことを見ていたらしく、それに気付いた彼はこちらを見た。

わたしは顔を見合わせてしまい、思わず「あっ」と呟く。


「えっと、良かったら自転車乗ってく?」


わたしは自分で言いながら、前野くんが「え?」と聞き返してくると同時に首を傾げた。

焦った勢いで、一体なにを口走っているんだろう。


「歩くには結構時間かかるし、自転車って速いから……」


そう言って自転車の後ろを指差してみるものの、やっぱりわたしは変なことを言っているんだろう。

前野くんはわたしの指を辿って自転車の後部席を見た。


「でも……俺重いから……」


気にするところがまるで女子。

いや、でも女子が漕ぐ自転車の後ろになんか男子は乗りたくないって思うのかな……というか、まずわたしとなんか乗りたくはないか……。

なんだか気まずい空気が流れ始めたその時、後ろの方から複数人の笑い声が聞こえてわたしと前野くんはほぼ同時に振り返った。


「あっ」


するとそこに、同じ学校の制服を着た生徒数人がこちらに向かって歩いているのが見える。


「もう、部活終わっ」

「羽白さん、自転車借りていい?!」

「え?」


前野くんの突然な大きな声に驚いて思わず足を止めると、前野くんは背負っていたリュックを下ろしてわたしの自転車のハンドルを掴んだ。


「え、ちょっ」

「羽白さん、乗って!」


ええ……この人全然わたしの話聞こうとしないんだけど。

そう思ったのも束の間、前野くんに腕を掴まれてわたしはそのまま前野くんが乗っているわたしの自転車の後部席に乗った。

すると、自転車はそのまま勢いよくペダルが踏み込まれて、わたしは咄嗟に前野くんの肩を掴んだ。


「わっ、ごめん」


すぐにその手を離して謝ったけれど、前野くんにその声は届いていないらしかった。

後ろを振り返ると、さっきまで見えていた部活を終えたらしい生徒の姿はどんどん小さくなっていく。

……というか、なんだこの状況。

どうしてわたしの自転車を前野くんが漕いで、その後ろにわたしが乗っているんだ。

どう考えても逆なんじゃないか。

こんな状況、約1時間前のわたしが見たら舞佳以上にひっくり返りそうだ。

いやあ、人生なにが起こるか分からない。

園埼に向かう道を曲がった所で横断歩道の信号に引っかかり、前野くんはブレーキを引いて自転車を止めた。

すると、不意に前野くんが片手で額を抑えて「……羽白さん」と今にも消え入りそうな声で言ったので、わたしは少し首を傾けて見る。


「……ごめん、羽白さんの自転車を勝手に……」

「そんなの全然。 わたし、ただ乗ってただけだし」


そう言うと、前野くんは再び「ごめん」と小さな声で言った。


「ほんとにいいよ。 このまま乗っててもいいし」


わたしは言った後に(これって、間接的にわたしを後ろに乗せて送れって言ってるようなものじゃん……)と思う。


「……俺、乗ってていいの?」


ふいに前野くんが顔をこちらに傾けて言ったので、わたしは少しびっくりしつつ「うん」と頷く。


「あ、でももしかして重い? わたしが漕ごうか?」

「いや、それは全然大丈夫……」


その時、横断歩道の信号が青に変わり前野くんは自転車のペダルをゆっくりと踏んだ。

ふわりと、少し湿気を含んだ風が頬を撫でる。 わたしは、前野くんのリュックが落ちてしまわないようにしっかりと支えた。

自転車に乗っているおかげで、無言になっても特別気まずい雰囲気にならないことが救いだ。

ぼーっと前野くんの背中を見つめると、ふと自分はこんな風に自転車の後ろに乗ることに憧れていたことに気が付いた。

といっても、小学生の頃に読んでた少女マンガはそんなシチュエーションで溢れていたからという単純な理由なんだけれど。

キイ、キイ、と小気味の良いボロ自転車のどこかしらが軋む音を聞いていると不意に「羽白さん」と名前を呼ばれた。

気を抜いていたせいでわたしはビクッとなったけれど、それは前野くんには気付かれていないようで何事もなかったように「なに?」と返事をする。


「カバン、持ってもらっててごめんね」

「いいよ。 むしろ、自転車漕いでもらってありがたいよ」


前野くんは少しこちらに顔を傾けて「うん」と小さく言った。

園埼のコンビニに到着した頃には、辺りも薄暗くなって街灯がつき始めていた。

前野くんの家まで自転車を乗ってて良いと言ったけれど、「それは申し訳ない」と頑なに言うので、ここで降ろしてもらうことにした。


「ごめんね、ここまで送ってもらっちゃって」


わたしは前野くんのリュックを抱えたまま後部席から降りると、前野くんも若干顔を俯かせつつ、自転車から降りた。

「はい」と言ってリュックを差し出すと、前野くんは受け取りながら口を開いた。


「ほんと、変なことしてごめん……あと、昨日も」

「昨日?」

「駐輪場で、びっくりしてそのまま逃げたから……」


そう言われて、わたしは昨日の出来事を思い出す。
今日の夕方までそのことで頭がいっぱいだったのに、この短い時間で色んなことが起きすぎてすっかり忘れていた。


「あれはわたしが急に声かけちゃったから仕方ないよ。 それに、昨日今日と倒れてた自転車直してくれてありがとう」


わたしは言いながら、風のせいで周囲が囲ってある駐輪場であんなことが起こるなんてやっぱり思えなかった。


「本当に、風で倒れたの?」

「……いや……」


前野くんはどこか言いづらそうで、わたしは黙って言葉を待つ。


「俺、いつも裏門から帰ってて……昨日は通りかかった時には倒れてたんだけど、今日は派手な音が聞こえたすぐ後に話し声も聞こえたんだ」

「話し声? 何人か居たってこと?」


わたしは思わず眉根を寄せて言うと、前野くんは頷く。


「多分、二人くらいかな……」


ふたり……。 わたしは自転車に視線を落とす。 

仮に、その二人が駐輪場に停められている自転車をわざと蹴り倒している愉快犯だとしたら。


「そんなことされてたら、自転車壊れちゃうじゃない……」

「え?」

この自転車には、わたしが卒業するまで頑張ってもらわないといけないっていうのに……そんな人たちの所為で壊されでもしたら溜まったもんじゃない。


「う、羽白さん……?」

「ううん、なんでもない。 教えてくれてありがとう」


そう言うと、前野くんは「いや」と遠慮がちに首を横に振った。


「じゃあ、帰り、気を付けて……」

「うん、前野くんも」


自分の家と反対方向に歩き出した前野くんの背中を少し見送ってから、わたしは自転車のストッパーを上げた。

その時、コンビニの方から「お姉ちゃん!」と呼ばれ振り向くと中学校の制服を着た妹の姿が。


「あんたなんでコンビニなんて寄ってんの」

「生徒会で遅くなったの。 お母さんには内緒ね」


そう言って妹が何かをこちらに向かって投げたものを手に取ると、チョコ味のアイスバーだった。

妹はバニラ味のアイスバーの袋を嬉しそうに開けている。


「同罪にしようって魂胆ね」

「へへ、レジ行こうとしたらお姉ちゃんいたからさ。 お姉ちゃん、チョコ味好きでしょ?」


店内からわたしの姿が見えて、わざわざわたしの好きなチョコ味を買ってくれたらしい。


「仕方ないなぁ」

「やったね。 あ、お姉ちゃんに見せたいのあったんだった」

「なに?」


お互いにアイスを食べながら家に向かう。 妹は制服の胸のポケットからスマートフォンを取り出して何やら画面を弄り始めた。

あれ、中学校ってスマホ持ち込みアリだっけ?


「この人、めちゃくちゃかっこよくない?!」


妹が興奮気味でこちらに向けたスマートフォンの画面には、枠いっぱいに綺麗な顔立ちの男の子の顔写真が写っている。


「誰これ」

「うちの学校の生徒会役員だった人! お姉ちゃんと同い年なの」

「へえ」

「えっ、全然興味ないじゃん」


妹はスマートフォンを自分の顔の前へと持ってきて「はあ、実物見てみたかったなあ……」と肩を落とす。
そういえば、妹はわたし達三姉妹の中で一番の面食いだったことを思い出した。


「あんたのところ中高一貫だから、今もいるんじゃないの?」

「それが、この人外部受験したんだって。 それがショックで泣いた女子の先輩たくさんいたらしいの」

「へえ……」


わたしはもう一度スマートフォンの画面を見る。

そこに映るのは、誰かと笑い合っているのか、優しく笑う肌の白い男の子。

確かにこのアイドル顔なら、少女漫画で“学校イチのイケメン”という肩書がつきそうだ。

それでも、今のわたしの頭は見ず知らずのイケメンよりも駐輪場のことでいっぱいだった。