▽
学校という名のつく場所では、集団に属さない人間はそれだけで悪目立ちしてしまうことがある。
けれど、わたしは高校生になってここまで悪目立ちしている人を見たことがない。
そんな人が、今日わたしの後ろの席になった。
前野 涼。 これが彼の名前。
トレードマークは黒縁眼鏡だけど、もさっと伸びた重たそうな髪のせいで、眼鏡は役割を果たせず視界は良好ではなさそう。
ここまでの特徴だけであれば、普通にそこら辺にもいる。 しかし、前野くんは表情も常に暗く、この世の全ての負のオーラを背負っているようだ。
今だって、前野くんが後ろにいると思うだけで背中がズンと重たい。 これはきっと、わたしの気分だけじゃなくて、前野くんの放つ負のオーラパワーのせいなのもある。
ああ、ほら。 この間まで前野くんの隣の席だった田口さんは、この半年で1番の笑顔で笑っている。
開放感に満ち溢れていて、なんて幸せそうなんだろう。
それに、今回の席替えでこのポジションを免れた生徒全員、心の内では両手を広げて喜んでいるに違いない。 皆、今日この新学期恒例の席替えを何よりも恐れていたんだから。
なぜ、学校という場所は新学期になると席替えをしたがるんだ。
それに、どうして毎回くじ引きで決めるんだ。 なんで全て運任せなんだ。
わたしが引いてしまったくじの番号は19番。 今日から嫌いな数字ナンバーワンだ。
19番の席の位置は窓側の後ろから2番目。
そしてわたしの後ろの席の23番を前野くんが引いたらしい。
しかも、このクラスの人数は41人で数が合わず、彼だけ隣の席の生徒はいない。
だから、この教室内で一番前野くんと距離が近いのはわたしということになる。
この状況を一言でいうと、つらい。
「よし、明日からこの席で行くからなあ。異論は認めねえぞ~」
担任教師の間延びした声が聞こえて、(異論認めてくれないんだ……)とぼんやり思う。
まあ、隣の席じゃなかっただけマシか……。 そう思う他、わたしのこの気分を救えるものが無い。
今更異論は認められないのだし、前野くんに非常に失礼かもしれないけれど、仮に「前野くんの前の席はつらいです」とクラスのカースト上位的な存在でもないわたしが今ここで言ったところで、120%教室が静まり返るだけだ。
もしそうなったら、なんかそれが1番メンタルにくる。
それに、わたしなんかの意見がこのクラスに通るわけがない。
クラスのカースト上位にしか物事への発言権や選択権がないこの学校社会は何なんだ。
なんだか腹が立ってきた。
その人たちが言うことは大抵「自分たちだけが良ければそれでいい」などという勘違い独裁者のような自己中心的発言ばかりじゃないか。
きっとここの席がわたしじゃなかったら……わたしと同じ横列の廊下側の席になったあのカースト上位代表みたいな顔をした相沢なら、「俺ここの席やだよ!!」って声を張り上げて言うに決まってるんだ。
そんなことを思った時、ブレザーのポケットに入れたスマートフォンのバイブが鳴った。
担任の視線がこちらを向いていないことを確認してスマートフォンを取り出すと、ディスプレイにはわたしの思考を読み取ったのかというタイミングで相沢からのメッセージが表示されていた。
『羽白、前野とめっちゃ至近距離じゃんwがんばれww』
……どうにかして相沢を不幸にできないだろうか。
相沢はきっと腹立つ薄ら笑いを浮かべた顔でこちらを見ているに決まっている。
目なんか合わせてやるか。 くたばればいい。
担任が明日の連絡事項を話し終えたところで、ショートホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴った。
ああ、なんて心の晴れない一日の終わり方だろうか……。
明日からのことを思うと、胃の辺りに重りがのし掛かかったような気がした。
さっさと帰ろう。 そして早くお風呂に入ってさっさと寝よう。
まだ席に座っているであろう前野くんの机に椅子がぶつからないように慎重に席を立って教室から出ようとしたとき、「ちょ、待てよ」と生まれた時からどこかしらで耳にしているフレーズが聞こえたと同時に腕を掴まれた。
驚いて振り向くと、そこには相沢がいて、わたしは驚いたことを悟られないよう表情を固める。
「なに」
「今日、これから委員会あるけど」
……最悪だ。うっかり忘れていた。
けれど、そんな”うっかり”を相沢ごときに気付かれるのは腹が立つので「知ってる」と真顔のままで言ってみる。
「それならいいけど」
そう言ってわたしの腕をぱっと離した相沢は、再びクラスメイトの男子と話し始めた。
……腕を掴まなくったって、普通に声かけてくれれば良かったのに。
わたしは仕方なく、昇降口に向かうはずだった足と気持ちを180度方向転換して、委員会が行われる多目的室へと向けた。
どうせ、新学期はじめの校則チェックの説明や当番を決めるだけだ。
けれど、たったそれだけを済ませるのにあの委員会は無駄に時間が押すから嫌い。
あと、相沢と同じというのがなんか嫌だ。
ピアスつけてズボンずるずるの学校生活の規律も守れていない、”風紀”とはかけ離れたような奴がどうして風紀委員に立候補したんだろう。
それに、そんな校則を普段破っているような奴が他の生徒が校則を破っていないかチェックしたところで、スカートを捲る子は捲るし、ピアスをつける子はつけるし、ネイルをする子はするし、化粧をする子はするのだ。
校則チェックなど突破するのなんて、女の子たちにとってどうってことない。
現に、風紀委員のわたしだって普段はスカートの長さは校則を破っている。
といっても、これは不可抗力であって、理由はお姉ちゃんのおさがりだからだ。
お姉ちゃんは入学早々にスカートの長さを5センチほど切った。
何をそんなにスカートが長いことが嫌なのか。
何をそんなに脚を見せたがるのか。
わたしには理解できないけれど、もう切られたスカートをどうすることもできないので、仕方なく校則チェック週間はウエスト部分を調整してなんとか裾が膝に被るようにスカートを履くしかない。
これがまた絶妙にダサい。 ウエストにはまらないスカートはなんかきもい。
それでも、こうやって委員会に向かう前には必ずスカートのウエストを少しだけ緩めておく。
委員会は予想した通り、来週の校則チェックの説明と週の当番決めで終わった。
時間は普通授業とほぼ同じ50分。 時計を見ると、時刻は5時を過ぎていた。
よし、もう帰ろう。 急いで帰ろう。
「なあ、お前知ってる?」
鞄を肩に掛けて椅子から立ち上がろうとした時、どこかしらの席に座っていたはずの相沢が、空いていたわたしの前の先に座ってきた。
不機嫌な態度を隠すことなく睨むと「何怒ってんだよ」とそんなこと気にしてないような声で相沢は言った。
「怒ってないから。なに」
「噂でさ、前野の前の席になったやつは鞄の肩紐が切れるらしいよ」
なんだその特殊な内容の噂は。 でもそれは普通に嫌だ。
それに、わざわざこういうことを言ってくるこいつの性格が一番嫌。
「鞄抱えて歩くからいい」
「頭良いじゃん」
なんだこの会話は……くだらなすぎて寒気がしてくる。
ついに帰ろうと席から立ち上がった時、再び相沢が「あ、待って待って」と言ってきた。
「これ興味ある?」
そう言って差し出されたのは、過激なイラストと英語が書かれたチケット。
「何これ」
「4組の前園とかが今度ここでDJやるんだけど、人集めててさ」
前園……? DJ……??
「いや、誰か知らないし」
「あ、まじ?」
相沢は自分のスマートフォンを取り出すと、何回かスクロールして「あったあった」と言いながらこちらにディスプレイを見せてきた。
そこは、去年の文化祭の時だろうか、がやがやとした中に複数人の男子生徒がこちらに笑顔を向けている姿が写っている。
「俺の左隣にいるのが前園」
「……へえ」
この学校にこんな見事なアフロ頭の男子生徒は居ただろうか。 いや、カツラか何かだろうけど。
でも確かに、この画像だけで”前園"が学年のカースト上位にいるということはなんとなく分かる。
というか、相沢と仲の良い子たちは大体がカースト上位のポジションに座っている。
「……わたしはいい」
チケットを持った右手を浮かせたままの相沢を置いて、わたしは多目的室を出た。
背後から「明日も誘うから!!」という叫び声が聞こえたけど聞かなかったことにする。
今日誘ってダメだったのに、なぜ明日も挑んでくるのか。
わたし以外にも相沢の周りには他にも声をかける子たちが沢山いるんだから、その子たちを誘えばいいのに。
ふと、相沢と会話している時間と同じくらい無駄な時間はなんだろうと考えた時、校長のオチのない話を聞いている全校集会が思い出された。
昇降口に着いて靴を履き替えて、足早に駐輪場へと向かったけれど、その入口で咄嗟に足を止めた。
そこから見えたのは、駐輪場の一番奥、見覚えのある背中の丸回ったシルエット。
……えっ……前野涼……?
足音を立てないように一歩下がって物陰に隠れる。
この駐輪場は屋根付きで、夕暮れのこともあり中は少し暗いけれど、それ以上に彼の周囲はどんよりと暗く見えた。
前野くんって、自転車通学だったの……? でも、そんなの一度も見たことないし。 ていうか、だったらなんですぐに自分の自転車に乗らないの……?
……も、もしかして誰かのサドル盗もうとしてる?
だとしたら、そんな面倒な場面は目撃せず帰りたい。
どうしよう……前野くんにバレないように足音を立てずに息を殺して行くか……。
でも、仮に気付かれたりしたら本当に息の根を止められそうな気もする。
……ん? ちょっと待った。
そこ、わたしが今日自転車停めたところじゃないか。
……だとしたら、前野くんはわたしの自転車のサドルを盗ろうとしている……?
それはもの凄く困る。 勘弁してほしい。
「ね、ねえっ」
ほぼ無意識に一歩踏み出して、自分の予想より大きい声が出て自分自身で驚く。
すると、まるで熱湯でもかけられたみたいに前野くんはビクッと飛び上がって勢いよくこちらに振り返った。
目元は前髪のせいでよく見えないけれど、確かに目が合う。
……けれど、沈黙。
サドルの危険を感じて反射的に声を掛けてしまったけれど、その次の言葉を用意していなかった。
でも、なにか言わなきゃ。 なによりもこの沈黙が怖い。
言葉を発しようと息を吸ったその時、前野くんは突然踵を返してわたしに背中を向けてスタスタと裏門の方へ歩いて行った。
「え、ちょっと!」
そう声を掛けた時には、もう前野くんは駐輪場の角を曲がって姿を消していた。
え……? 逃げるように去って行ったけど……。
あれ、自転車通学じゃないの?
わたしは取り敢えず、先ほどまで前野くんが立っていた自分の自転車の元へと向かう。
サドルは盗られていないし、タイヤもパンクしていない……落書きをされている訳でも、どこか歪んでいる様子もない。
無傷だ……でも、未遂という可能性も……。
「え……こわ……」
考えを巡らせてみても、わたしの記憶では前野くんに恨まれるようなことはしていないはず。
それに、そもそもわたし自身が彼に認知されていたのかも怪しい。 一度も話したことないし。
……でも、仮に前野くんがエスパーで、今日のわたしの思考が全て筒抜けだったら……。
いや、そんなことがある訳ない。
あの見た目で実はエスパーなんて、そんな漫画みたいな展開がある訳ない。
じゃあ、なんでこんなところに立っていたんだろう。
当の本人がいなくなってしまった今、前野くんが何をしようとしていたのかはもう分からない。
分かることだけは……。
「……やっぱり、気味悪い」
あれだけ人が寄り付かないのも、相沢が変な噂を知っている理由がよく分かった。
いや、前から分かっていたつもりだけど、身を持って体感した。
彼は、とにかく不気味。
……明日からずっと前の席でやっていかなきゃならないなんて……。
これも全部、19番のせいだ。
くじの番号を適当に割り振ってあそこの席に19番と書いた担任が憎い。
それをうっかり引いてしまった自分はもっと憎い。
「はぁ〜〜……」
どうして、たった1人の男子生徒にこんなに精神削られなきゃいけないんだ。
ぐったりとしながら鞄の中から自転車の鍵を取り出して、それを差し込んで捻る。
もう帰ろう。 さっさと寝よう。
背中に重たい何かを感じたまま、自転車に跨る。
……ブレーキとか、壊されてたりしないよね。
ふとそんなことを思い、自転車を駐輪場から出してブレーキを引いてみる。
「はは……考えすぎか」
力の全くない笑い声で一人呟いて、わたしはそのまま帰路へついた。
学校という名のつく場所では、集団に属さない人間はそれだけで悪目立ちしてしまうことがある。
けれど、わたしは高校生になってここまで悪目立ちしている人を見たことがない。
そんな人が、今日わたしの後ろの席になった。
前野 涼。 これが彼の名前。
トレードマークは黒縁眼鏡だけど、もさっと伸びた重たそうな髪のせいで、眼鏡は役割を果たせず視界は良好ではなさそう。
ここまでの特徴だけであれば、普通にそこら辺にもいる。 しかし、前野くんは表情も常に暗く、この世の全ての負のオーラを背負っているようだ。
今だって、前野くんが後ろにいると思うだけで背中がズンと重たい。 これはきっと、わたしの気分だけじゃなくて、前野くんの放つ負のオーラパワーのせいなのもある。
ああ、ほら。 この間まで前野くんの隣の席だった田口さんは、この半年で1番の笑顔で笑っている。
開放感に満ち溢れていて、なんて幸せそうなんだろう。
それに、今回の席替えでこのポジションを免れた生徒全員、心の内では両手を広げて喜んでいるに違いない。 皆、今日この新学期恒例の席替えを何よりも恐れていたんだから。
なぜ、学校という場所は新学期になると席替えをしたがるんだ。
それに、どうして毎回くじ引きで決めるんだ。 なんで全て運任せなんだ。
わたしが引いてしまったくじの番号は19番。 今日から嫌いな数字ナンバーワンだ。
19番の席の位置は窓側の後ろから2番目。
そしてわたしの後ろの席の23番を前野くんが引いたらしい。
しかも、このクラスの人数は41人で数が合わず、彼だけ隣の席の生徒はいない。
だから、この教室内で一番前野くんと距離が近いのはわたしということになる。
この状況を一言でいうと、つらい。
「よし、明日からこの席で行くからなあ。異論は認めねえぞ~」
担任教師の間延びした声が聞こえて、(異論認めてくれないんだ……)とぼんやり思う。
まあ、隣の席じゃなかっただけマシか……。 そう思う他、わたしのこの気分を救えるものが無い。
今更異論は認められないのだし、前野くんに非常に失礼かもしれないけれど、仮に「前野くんの前の席はつらいです」とクラスのカースト上位的な存在でもないわたしが今ここで言ったところで、120%教室が静まり返るだけだ。
もしそうなったら、なんかそれが1番メンタルにくる。
それに、わたしなんかの意見がこのクラスに通るわけがない。
クラスのカースト上位にしか物事への発言権や選択権がないこの学校社会は何なんだ。
なんだか腹が立ってきた。
その人たちが言うことは大抵「自分たちだけが良ければそれでいい」などという勘違い独裁者のような自己中心的発言ばかりじゃないか。
きっとここの席がわたしじゃなかったら……わたしと同じ横列の廊下側の席になったあのカースト上位代表みたいな顔をした相沢なら、「俺ここの席やだよ!!」って声を張り上げて言うに決まってるんだ。
そんなことを思った時、ブレザーのポケットに入れたスマートフォンのバイブが鳴った。
担任の視線がこちらを向いていないことを確認してスマートフォンを取り出すと、ディスプレイにはわたしの思考を読み取ったのかというタイミングで相沢からのメッセージが表示されていた。
『羽白、前野とめっちゃ至近距離じゃんwがんばれww』
……どうにかして相沢を不幸にできないだろうか。
相沢はきっと腹立つ薄ら笑いを浮かべた顔でこちらを見ているに決まっている。
目なんか合わせてやるか。 くたばればいい。
担任が明日の連絡事項を話し終えたところで、ショートホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴った。
ああ、なんて心の晴れない一日の終わり方だろうか……。
明日からのことを思うと、胃の辺りに重りがのし掛かかったような気がした。
さっさと帰ろう。 そして早くお風呂に入ってさっさと寝よう。
まだ席に座っているであろう前野くんの机に椅子がぶつからないように慎重に席を立って教室から出ようとしたとき、「ちょ、待てよ」と生まれた時からどこかしらで耳にしているフレーズが聞こえたと同時に腕を掴まれた。
驚いて振り向くと、そこには相沢がいて、わたしは驚いたことを悟られないよう表情を固める。
「なに」
「今日、これから委員会あるけど」
……最悪だ。うっかり忘れていた。
けれど、そんな”うっかり”を相沢ごときに気付かれるのは腹が立つので「知ってる」と真顔のままで言ってみる。
「それならいいけど」
そう言ってわたしの腕をぱっと離した相沢は、再びクラスメイトの男子と話し始めた。
……腕を掴まなくったって、普通に声かけてくれれば良かったのに。
わたしは仕方なく、昇降口に向かうはずだった足と気持ちを180度方向転換して、委員会が行われる多目的室へと向けた。
どうせ、新学期はじめの校則チェックの説明や当番を決めるだけだ。
けれど、たったそれだけを済ませるのにあの委員会は無駄に時間が押すから嫌い。
あと、相沢と同じというのがなんか嫌だ。
ピアスつけてズボンずるずるの学校生活の規律も守れていない、”風紀”とはかけ離れたような奴がどうして風紀委員に立候補したんだろう。
それに、そんな校則を普段破っているような奴が他の生徒が校則を破っていないかチェックしたところで、スカートを捲る子は捲るし、ピアスをつける子はつけるし、ネイルをする子はするし、化粧をする子はするのだ。
校則チェックなど突破するのなんて、女の子たちにとってどうってことない。
現に、風紀委員のわたしだって普段はスカートの長さは校則を破っている。
といっても、これは不可抗力であって、理由はお姉ちゃんのおさがりだからだ。
お姉ちゃんは入学早々にスカートの長さを5センチほど切った。
何をそんなにスカートが長いことが嫌なのか。
何をそんなに脚を見せたがるのか。
わたしには理解できないけれど、もう切られたスカートをどうすることもできないので、仕方なく校則チェック週間はウエスト部分を調整してなんとか裾が膝に被るようにスカートを履くしかない。
これがまた絶妙にダサい。 ウエストにはまらないスカートはなんかきもい。
それでも、こうやって委員会に向かう前には必ずスカートのウエストを少しだけ緩めておく。
委員会は予想した通り、来週の校則チェックの説明と週の当番決めで終わった。
時間は普通授業とほぼ同じ50分。 時計を見ると、時刻は5時を過ぎていた。
よし、もう帰ろう。 急いで帰ろう。
「なあ、お前知ってる?」
鞄を肩に掛けて椅子から立ち上がろうとした時、どこかしらの席に座っていたはずの相沢が、空いていたわたしの前の先に座ってきた。
不機嫌な態度を隠すことなく睨むと「何怒ってんだよ」とそんなこと気にしてないような声で相沢は言った。
「怒ってないから。なに」
「噂でさ、前野の前の席になったやつは鞄の肩紐が切れるらしいよ」
なんだその特殊な内容の噂は。 でもそれは普通に嫌だ。
それに、わざわざこういうことを言ってくるこいつの性格が一番嫌。
「鞄抱えて歩くからいい」
「頭良いじゃん」
なんだこの会話は……くだらなすぎて寒気がしてくる。
ついに帰ろうと席から立ち上がった時、再び相沢が「あ、待って待って」と言ってきた。
「これ興味ある?」
そう言って差し出されたのは、過激なイラストと英語が書かれたチケット。
「何これ」
「4組の前園とかが今度ここでDJやるんだけど、人集めててさ」
前園……? DJ……??
「いや、誰か知らないし」
「あ、まじ?」
相沢は自分のスマートフォンを取り出すと、何回かスクロールして「あったあった」と言いながらこちらにディスプレイを見せてきた。
そこは、去年の文化祭の時だろうか、がやがやとした中に複数人の男子生徒がこちらに笑顔を向けている姿が写っている。
「俺の左隣にいるのが前園」
「……へえ」
この学校にこんな見事なアフロ頭の男子生徒は居ただろうか。 いや、カツラか何かだろうけど。
でも確かに、この画像だけで”前園"が学年のカースト上位にいるということはなんとなく分かる。
というか、相沢と仲の良い子たちは大体がカースト上位のポジションに座っている。
「……わたしはいい」
チケットを持った右手を浮かせたままの相沢を置いて、わたしは多目的室を出た。
背後から「明日も誘うから!!」という叫び声が聞こえたけど聞かなかったことにする。
今日誘ってダメだったのに、なぜ明日も挑んでくるのか。
わたし以外にも相沢の周りには他にも声をかける子たちが沢山いるんだから、その子たちを誘えばいいのに。
ふと、相沢と会話している時間と同じくらい無駄な時間はなんだろうと考えた時、校長のオチのない話を聞いている全校集会が思い出された。
昇降口に着いて靴を履き替えて、足早に駐輪場へと向かったけれど、その入口で咄嗟に足を止めた。
そこから見えたのは、駐輪場の一番奥、見覚えのある背中の丸回ったシルエット。
……えっ……前野涼……?
足音を立てないように一歩下がって物陰に隠れる。
この駐輪場は屋根付きで、夕暮れのこともあり中は少し暗いけれど、それ以上に彼の周囲はどんよりと暗く見えた。
前野くんって、自転車通学だったの……? でも、そんなの一度も見たことないし。 ていうか、だったらなんですぐに自分の自転車に乗らないの……?
……も、もしかして誰かのサドル盗もうとしてる?
だとしたら、そんな面倒な場面は目撃せず帰りたい。
どうしよう……前野くんにバレないように足音を立てずに息を殺して行くか……。
でも、仮に気付かれたりしたら本当に息の根を止められそうな気もする。
……ん? ちょっと待った。
そこ、わたしが今日自転車停めたところじゃないか。
……だとしたら、前野くんはわたしの自転車のサドルを盗ろうとしている……?
それはもの凄く困る。 勘弁してほしい。
「ね、ねえっ」
ほぼ無意識に一歩踏み出して、自分の予想より大きい声が出て自分自身で驚く。
すると、まるで熱湯でもかけられたみたいに前野くんはビクッと飛び上がって勢いよくこちらに振り返った。
目元は前髪のせいでよく見えないけれど、確かに目が合う。
……けれど、沈黙。
サドルの危険を感じて反射的に声を掛けてしまったけれど、その次の言葉を用意していなかった。
でも、なにか言わなきゃ。 なによりもこの沈黙が怖い。
言葉を発しようと息を吸ったその時、前野くんは突然踵を返してわたしに背中を向けてスタスタと裏門の方へ歩いて行った。
「え、ちょっと!」
そう声を掛けた時には、もう前野くんは駐輪場の角を曲がって姿を消していた。
え……? 逃げるように去って行ったけど……。
あれ、自転車通学じゃないの?
わたしは取り敢えず、先ほどまで前野くんが立っていた自分の自転車の元へと向かう。
サドルは盗られていないし、タイヤもパンクしていない……落書きをされている訳でも、どこか歪んでいる様子もない。
無傷だ……でも、未遂という可能性も……。
「え……こわ……」
考えを巡らせてみても、わたしの記憶では前野くんに恨まれるようなことはしていないはず。
それに、そもそもわたし自身が彼に認知されていたのかも怪しい。 一度も話したことないし。
……でも、仮に前野くんがエスパーで、今日のわたしの思考が全て筒抜けだったら……。
いや、そんなことがある訳ない。
あの見た目で実はエスパーなんて、そんな漫画みたいな展開がある訳ない。
じゃあ、なんでこんなところに立っていたんだろう。
当の本人がいなくなってしまった今、前野くんが何をしようとしていたのかはもう分からない。
分かることだけは……。
「……やっぱり、気味悪い」
あれだけ人が寄り付かないのも、相沢が変な噂を知っている理由がよく分かった。
いや、前から分かっていたつもりだけど、身を持って体感した。
彼は、とにかく不気味。
……明日からずっと前の席でやっていかなきゃならないなんて……。
これも全部、19番のせいだ。
くじの番号を適当に割り振ってあそこの席に19番と書いた担任が憎い。
それをうっかり引いてしまった自分はもっと憎い。
「はぁ〜〜……」
どうして、たった1人の男子生徒にこんなに精神削られなきゃいけないんだ。
ぐったりとしながら鞄の中から自転車の鍵を取り出して、それを差し込んで捻る。
もう帰ろう。 さっさと寝よう。
背中に重たい何かを感じたまま、自転車に跨る。
……ブレーキとか、壊されてたりしないよね。
ふとそんなことを思い、自転車を駐輪場から出してブレーキを引いてみる。
「はは……考えすぎか」
力の全くない笑い声で一人呟いて、わたしはそのまま帰路へついた。