澤村に声を向けられたとき、土門は呆然とした態でその場に佇立していた。

 真野たちの身に何事が起きたのか、とっさに理解できなかったのだ。
 
 だがそれも長いことではなく、すぐに自己を回復させて声をはりあげた。

「よ、よし。じゃあ、俺についてこい!」
 
 叫ぶと同時に土門は、オフィスを脱兎のごとく飛び出していった。
 
 むろん澤村もその後に続いて駆けだしたのだが、驚くべきは土門のその「速さ」である。
 
 何が凄いかって、小太りの中年男が、まるでサバンナを駆るヒョウのような俊敏な動きで廊下を駆け抜けたと思ったら、これまた胴長短足の体形にはふさわしくない躍動感を見せて、階段をピョンピョンと跳ぶように駆け降りていくのだ。それも二段三段飛び越えて。
 
 おかげで澤村などは、追いつくどころか置いていかれないように必死についていくのがやっとである。
 
 俗に「火事場の馬鹿力」なる言葉があるが、人間切迫した状況に追いこまれると、普段には想像のできないような力を無意識に発揮するというのはどうやら事実らしい。
 
 異常な身体能力を見せる土門の後方を駆けながら、澤村は内心で感心するしかなかった。
 
 やがて二人は階段を降りきって一階にたどり着いた。
 
 ところが土門は、さらに階段を駆け降りて地下に向っていったので、澤村は慌てて声を投げつけた。

「ど、どこにいく気ですか、ボス。一階の出口はあっちですよ!」

「だからお前はあまいんだ」
 
 土門はせせら笑うと、同様の語調で続けた。

「いいか、あの真野のことだ。万が一にも逃げられることを考えて、一階ロビー付近にもすでに手下どもを配置しているにちがいない。だから裏をかいて地下まで降り、地下駐車場から逃げるのだ!」
 
 なるほど、と澤村は内心で土門の洞察力に感心した。
 
 先の公調本部内での騒動でもわかるように、常に先手を打って相手の動きを封じるのは真野の真骨頂なのは澤村も承知している。
 
 危険を嗅ぎとる嗅覚(はな)は警察犬をも陵駕する土門だけに、その言葉には説得力というものがあったが、しかし澤村には大きな疑問があった。

「でもボス。ここからどう行けば地下駐車場に出れるなんて、俺はわかりませんよ?」
 
 澤村は周囲をキョロキョロと見まわした。

 ビル内の案内図の類を捜そうとしたからだが、そんな澤村に土門は指先で自らの頭をつんつんと突きながら、自信満々に言い放ったものである。

「心配するな。このビルの構造はとっくに俺の高性能CPUにインプット済みだ。黙って俺についてこんかい、わっはっは!」

「…………」
 
 土門の一語に、澤村は山ひとつ分に相当する異論と疑念があったが、声にだしては何も言わず黙って土門の後についていくことにした。
 
 実際、今は四の五の言っている場合ではなかった。
 
 失神したといっても、それは数分間だけのこと。

 意識を取り戻せばすぐに追っ手が来るのは必至であり、一刻も早くこのビルから逃げださなくてはならないのだ。
 
 かくして土門と澤村はさらに階段を駆け降り、ビルの地下へと向かっていったのだが、土門の後を走る澤村の体内では得体の知れない不安が膨れあがっていった。
 
 その不安が現実のものとして澤村の前に立ちはだかったのは、それからまもなくのことである。

 わき目も振らずに階段を駆け降り、地下の通路を右に左に曲がるなどして走りつづけた土門と澤村は、時間にして三分後、ようやく「その場所」にたどりついたのである。
 
 地下の駐車場ではなく、行き止まりになっている地下の倉庫エリアに……。

「ボ、ボ、ボス、どうなっているんですか、これは! 駐車場に向かうはずが、なんで行き止まりの倉庫エリアにたどりつくんですか。何が俺のCPUにインプット済みですか!?」
 
 まさに周章狼狽の態で澤村がわめくと、土門は頭を抱えながらうめいた。

「な、なんということだ……日頃の激務によって蓄積された疲労が、まさか俺のCPUまで誤作動を起こさせるとは……」

(こ、このスカタン上司、もう生かしちゃおけねぇぇ……!)
 
 撲殺にすべきか、それとも絞殺にすべきか。

 屁の役にも立たない上司の「抹殺方法」を澤村が思案していると、地鳴りのような足音がどこからともなく響いてきた。
 
 もちろん澤村にはその音の正体がわかる。

 意識を取り戻した真野たちが、自分たちを追って近くまで迫ってきているのだ。

「ど、どうするんですか、ボス。連中がすぐそこまで来ているんですよ!」

「落ち着け、涼介! 俺の辞書に【狼狽】という文字はない!」

 【錯乱】とか【発狂】という文字はあるけどね。澤村は胸の中で毒づいた。

「いいか、よく考えてみろ。この地下倉庫エリアから外に出るには、この通路を戻るしかない。ということは、連中が俺たちを追ってくるにはこの通路を来るしかない。そうだな?」

「そ、そんなこと、あたりまえでしょうがっ!」

「いいから聞け。つまりだな、この通路内で奴らと銃撃戦になった場合、俺たちには身を隠す場所がここにあるが、奴らにはないのだ。わかるか、俺の言いたいことが?」

「み、身を隠す場所……?」
 
 土門の意外な一語に、澤村はすこしだけ冷静さを回復させた。
 
 そして、ゆっくりと周囲を見まわす。
 
 倉庫エリアだけあって、通路の左右には各倉庫の出入り口の扉がいくつもある。

 たしかに土門の言うとおり、この場所へと続く通路内には身を隠せるような壁や柱の凹凸部分はない。
 
 仮にここで銃撃戦になった場合、澤村たちは倉庫の中に身を隠しながら拳銃を撃つことができるが、向こうはこちらからの狙撃に対して隠れる場所がないのだ。
 
 たしかに地理的には有利であることは、澤村も認めざるを得なかった。

「お前、今、何丁ほど銃を持っている?」

「えっ、拳銃ですか? 拳銃はこのベレッタ一丁だけですが、弾倉はふたつほど予備がありますけど」

「俺はグロックを三丁持っている。弾倉は十本だ」
 
 そう言うなり土門は、着ている上着を広げて見せた。そこには弾倉ベルトが腹巻のように腰に巻かれてあった。

 しかし弾倉はともかく、拳銃本体を三丁も持つことに何か意味があるのだろうか?

「いつもそんなに拳銃を持ち歩いているんですか、ボスは?」
 
 という澤村の声にはあきらかに呆れた響きがあったのだが、どうやら土門には感心したように聞こえたらしい。
 
 薄笑いを浮かべながら土門はうなずいたものである。

「まあな。一流のスパイというものはあらゆる不測の事態を想定し、それに対処できる装備を常日頃からしておくものなのだよ」
 
 と、不測の事態を招いた張本人は、誇らしげに胸を張るのだった。

「地の利にくわえ、これだけの拳銃と弾があればかなりの時間を稼げる。無理に攻めこんで犠牲をだすほど真野はバカではない!」
 
 あんたは大バカだよ、と言ってやりたいのをこらえて、澤村はホルダーから拳銃をとりだした。
 
 たしかに地の利はこちらにあり、いかに数で勝ろうとも無理には攻めてはこないように思える。