この世には二つの『ルルブ』がある。

 一つは、旅行や観光の時に凄く役立つ本。

 もう一つは、TRPG(テーブルトーク・ロールプレイングゲーム)のルールが記された本である。


 
 鮫島テツオ――つまり俺が買ったのは後者、TRPGのルールブックだ。
 TRPG、というのはサイコロで遊ぶごっこ遊びのようなモノである。ゲームブックを皆でライヴに遊ぶ感じというか。

「鮫島くん、それマンガ?」

 そして彼女は金田トモコ。同じ高校、同じクラスで、俺の隣の席の女子――成績優秀スポーツ万能容姿端麗な『完璧超人』。ちなみに入学してから結構経ったけど、生まれて初めて話しかけられた。

「あっ、いや、マンガじゃなくて」

 出たよ『普段人と話さない奴』あるある、会話の最初に「あっ」て付けちゃうやつ。この「あっ」はナウローディングなんだ。
 とにかく、俺が読んでいるのはマンガじゃないのは本当だ。本当のことを言うと巻頭マンガが数ページあるんだけど、メインは文章だ。
 つまり俺は、金田さんから「学校にマンガを持ってきちゃ駄目だよ」と言われると思っていた。確かにこのルルブは文庫本サイズだし、表紙もラノベっぽい感じあるし、TRPGなんてマイナーな遊びだから、ルルブをパッと見て「これはTRPGのルルブ」と見分けられる人なんてそうそういないだろうし。

「マンガじゃなくて、何?」

 金田さんが首を傾げる。会話が続くとは思わなかった。「マンガじゃなくて」「そう」で終わると思ってたから。
 じっとこっちを見る金田さんの目、こうして見ると凄く大きい。睫毛も長くて人形のようだ……開けっ放しの窓から吹き込む風に金田さんの黒髪がなびいて、ふわっとシャンプーのいいにおいもする。

「鮫島くん?」
「あ。ええと――」

 また「あ」って言ったぞコイツ、と自己嫌悪しつつ、俺は猫のようにじっとこっちを見てくる眼差しとは対照的に、視線を気まずげに彷徨わせた。

「……ルルブ」
「るるぶ? 鮫島くん、旅行にでも行くの?」
「や、そっちのルルブじゃなくて……TRPGの」
「てぃーあーるぴーじー?」
「知らない? サイコロで遊ぶアナログゲームっていうか……動画サイトとかでよく見るから、気になって……これにはそのルールが書いてあるんだ」
「へえ……」

 金田さんはまじまじと、俺の手元にあるルルブを眺めている。まるで指の隙間から見える表紙を確かめるかのように。よかった、このルルブの表紙がエロいラノベみたいな奴とかじゃなくってスタイリッシュでカッコイイやつで本当によかった。セーフ。余談だが18禁のルルブもこの世にはあるらしい、世界は広い。

「鮫島くん。それって、おもしろい?」
「めっちゃ面白いよ! ……って、まだ遊んだことないんだけどね、ハハハ……こないだ買ったばっかりだからさ」
「ふぅん」

 つい食いついてしまった俺の物言いに対し、金田さんはクールなものだった。こういう、ワッと話した結果が冷静なリアクションだと、ちょっと虚しい……。
 と、廊下から他の女子が、「トモコちゃーん」と金田さんを呼んでいる。彼女はその声に応えて席から立ちながら――すれ違いざま、ルルブに目を戻した俺の肩を、後ろからポンと叩いて。

「ね、鮫島くん。今日の放課後、駅前に集合ね」
「え?」

 耳元で囁かれた鈴のような声に、俺が驚いて振り返った時にはもう――金田さんは、廊下へとセーラー服を翻していた。