ユルグ渓谷にワームが発生した事件は、通信魔術によってすぐさまエファラン全土に伝えられた。
 事件に巻き込まれた生徒たちに、死傷者は出なかった。
 お気楽なエファラン国民は「なーんだ。それなら良かった」と安心した。
 だが、レグルス王立学校の校長ともなると、そうは言っていられない訳で。
 
「ユルグ渓谷の状態をよく確認せずに、演習の許可を出した学校の責任は」
 
 云々かんぬん。
 校長のパレアナは、役人の言葉を聞き流しながら、重厚な木製の机の表面を、形のよい爪先でトントンと叩いた。
 パレアナは祖父からこの学校の管理を受け継いだ。
 就任当初、若い女性と侮られる事もあったが、得意の魔術で馬鹿どもを吹き飛ばしたところ、今は辣腕な校長と恐れられている。
 パレアナは優秀な魔術師だった。そして、イヴたちのクラスの担任でもある。
 
「とにかく……緑の姫に何かあれば、私たちの首が飛んでしまう。くれぐれも、慎重に。こんなトラブルになる演習は、今後あってはならない」
 
 役人が心配しているのは、イヴたちのクラスに密かに混ざっている、この国の姫様の安全だ。尊き姫の身にに何かあれば、学校関係者の首が飛びかねない。
 パレアナは内心うんざりしながら「分かっています」と返事した。
 姫様も学校の生徒なので特別扱いできないと言い返したいが、そう素直に反論しても拗れるだけなのがつらいところだ。
 
「校長、大丈夫なんですか」
 
 役人が帰った後、教頭のエリックが恐る恐る聞いてきた。
 
「何がだ?」
「姫様と一緒のチームにしたメンバーですよ」
 
 パレアナは、ユルグ渓谷の演習で振り分けたチームメンバーを思い返した。
 
「我ながら上出来な采配だったと思うが」
 
 メンバーを指折り数えた。
 
「まず、魔術師の名門アラクサラの娘。イヴ・アラクサラ。攻撃魔術に関して大人顔負けのお嬢さんだ」
 
 ストロベリーブロンドの少女を思い浮かべる。
 姫の隣に並んで遜色ない、高貴な威厳をまとう娘だ。
 
「そして、陸のソレルと名高い獣人の名門の次男。多少、素行は悪いが、腕は確かだ。姫の護衛に最適だろう」
「多少ですかね……」
 
 制服を着崩した眼光するどい青年を思い浮かべる。
 教頭のエリックは彼の素行についてコメントしたが、護衛に最適だと言う点に関しては反論ないようだ。
 
「監督役に、ロンド・イーニークを付けた。成績優秀な上に、特殊魔術に精通している生徒だ。人格的にも申し分ない」
「それは確かに」
 
 背の高い眼鏡を掛けた青年を思い浮かべる。
 落ち着いた雰囲気で、年齢より上に見られる事が多い生徒だ。
 
「……問題は、カケル・サーフェスでしょう。彼を、姫に近付けるなんて……ばれたら大変な事になりますよ」
 
 エリックは顔をしかめた。
 
「彼は、特権竜である可能性が非常に高い」
「それは……」
「生まれ育ちからして、当然だろう」
 
 ふう、と溜め息を吐いて、パレアナは立ち上がる。
 視線を窓の外へ向けた。
 窓の外には、生徒たちが賑やかに交流する校庭が広がっている。今日は晴れており、外で弁当を広げる生徒の姿があちこちで見られた。
 雲ひとつない抜けるような青空は、ここエファランでしか見られない。
 
「それに、私は必要だと思うのだよ。高天原《インバウンド》が鎖国してから、五十年近く経とうとしている。壁の内側と外側に、我らは隔てられている。その橋渡しが……」
 
 ワームの襲撃を恐れ、シャボン玉のような結界の中に引きこもってしまった高天原の人々。物資の輸出入も、人の出入りも、今現在限られている。
 高天原にはいつも雲が漂っている。
 結界の中で滞留する空気が、湿気を溜め込むからだ。
 
「橋渡し? 彼は敵国の者ですよ。姫様に近付ける以前に、同じ学校に通わせるのも、騎竜として受け入れるのも、私は反対です」
「エリック……」
「高天原の者たちは、我らの邪魔ばかりする。勝手に鎖国させておけば良いのです。純血の人間を尊び、竜や獣人の血を差別するなど……埃を被った古い考え方は、いずれ廃れていきます」
 
 エリックの考えは、エファランの多くの者が抱くものだ。
 高天原との軋轢は日々厚くなっている。
 どんどん遠くなる故郷を、シャボン玉の中に封じ込められた儚い世界を、彼はどんな気持ちで眺めているのだろう。
 パレアナは、彼の置かれた微妙な立場を思いやって複雑な心情を抱いた。