あの時の僕の気持ちを否定したいと思う。
 一体、亮二さんは何を考えているんだ。
 事務所の同スタッフが互いの探り合いなど、ましてや、こんな二重依頼……。
 オーナーは、何も言わない。
 どうなっているんだ。
 僕は、不満を吹き消そうと圭介さんのバーにいた。
 カウンターの中で圭介さんが、僕のオーダーしたカクテルを作っている。
「はい、ロングアイランドアイスティー。あれ以来、君のオーダーはこればかりだね」
 圭介さんは、からかうように笑う。
「あの時、これを出されて、僕はまだ視野が狭いんだと気付いたから、その気持ちを忘れない為かな」
「何にしても飲み過ぎは禁物」
「分かってる」
「亮二は? 珍しく一緒じゃないんだな」
「はは……今回はパートナーじゃないんで」
「ふうん。まぁ、詳しい事は聞かないけど」
 圭介さんは、笑って言った。
「はは……」
 僕は、苦笑した。
「圭介さんは、オーナーと親友なんだよね。オーナーの考えている事とか分かったりするもんなの?」
「まあ、何となくはね。そうは言ったって、人の心なんて不確かなもんだろ?」
「だよね」
「なんだ、亮二に振り回されてるのか」
 圭介さんは、クスリとからかうように笑う。
「はは……。いつもの事だけどね……」
「亮二もね、ここにふらっと来て、ショウに声をかけられたんだよ」
「へえ、亮二さんもここで……?」
「ショウが君に声をかけたのも分かる。あの時の亮二は、最初に君がここに来た時のように、何かを背負いこんでいた」
「亮二さんが……」
 僕は、周りにそんな風に思われるくらい、暗い顔をしていたのか……。
「まあ、亮二の場合、君とは逆で、ハイペースで酒を飲んでいたけどね」
「ハイペースで……?」
「ああ。ウォッカをストレートでね」
 圭介さんは、その時の亮二さんの事を話し始めた。
「亮二は、やたら陽気で、ここに来る前から飲んでいたようだった。入って来るなり、ウォッカをストレートでくれと言う。あまりにもハイペースでウォッカを飲むもんだから、さすがにこれ以上は飲ませる訳にはいかないとストップをかけたんだが……」
 圭介さんは、ウォッカの瓶をカウンターに置いた。
「そしたら、亮二の奴、急に頭を垂れてグラスを握りしめてこう言った」

『心が渇き過ぎちまった。ただの水じゃ足りないんだ』

「……水?」
 不思議そうに聞く僕に、圭介さんは教えてくれた。
「ウォッカの語源はヴァダー、水って意味だよ」

『ただの水じゃ足りないんだ』

「そして、蒸留酒はね、ラテン語でアクアヴィッテ。生命の水というんだよ」
 生命の……水……。亮二さんに何があったというのか。
 僕はまだ、亮二さんの何も知らないんだな。
「喋り過ぎだよ、圭介さん」
 亮二さんが現れた。
「ああ、悪い。ユウが悩んでるように見えたからね。亮二の昔話でも聞かせてやろうかと思ってね」
「まあ、別にいいけど」
 亮二さんは、そう言って静かに笑うと、僕の隣の席に座った。
 圭介さんは、カウンターに置いたウォッカのボトルを手に取って、ショットグラスにウォッカを注ぐと、亮二さんの前に置いた。
 亮二さんは、ウォッカを一気に飲み干す。
 そうだ。
 亮二さんは、いつもウォッカを飲んでいた。
 圭介さんは、いつも何も言わずに亮二さんにウォッカを出していた。
 今まで気にも留めなかった。
 亮二さんがウォッカを飲んでいる内は、亮二さんの心の渇きは癒えていないという事か。
「気になる? ユウ」
 亮二さんは、空のグラスを指でつまんで、僕をからかうように見た。
「俺の過去」
「別に」
 僕は、亮二さんから視線を外して、自分のグラスを手に取り、興味のない素振りを見せた。
 気にならない訳じゃない。本当は聞かれたくないだろうし、聞いたら聞いたで、どう答えていいか分からない。
「で、ユウ。どう攻めるつもり?」
「言う訳無いだろ」
「ふうん。行き詰まっているようなら、手を貸してあげてもいいけど?」
 クスクス笑いながら言う亮二さんに、イライラしながら僕は答えた。
「そっちこそ、僕の動向探らないと情報が得られないんじゃ?」
「言うねぇ」
 亮二さんは、ふっと鼻で笑うと席を立った。
 そして、僕の前に一枚の写真を裏返しに置くと、僕に背中を向けた。

「間違えるなよ。見誤った時点で、お前の負けだ」

 亮二さんは、そう言って店を出て行く。
 僕は、目の前に残された写真を手に取った。
「え……?」
 嘘だろ……。
 僕は、咄嗟に立ち上がった。
「亮二さん!」
 彼を振り向いたが、彼はもう店を出てしまっていた。
 僕は、写真を握りしめ、歯を噛み締めた。
 僕のクライアント、神崎瑠衣は……。
「こんな依頼……」
 亮二さんには分かっていたはず。
 こんな依頼、受けるべきではなかったんだ。
 浮気調査なんかじゃない。
 あの時、彼女は言っていた。
 証拠はあると。
 なのに調査を依頼した。
「ねえ……圭介さん……」
 僕は、視線を下に落としたまま、圭介さんに聞いた。
 圭介さんは、黙って僕の言葉を聞いていた。
「人生を、正しく生きるマニュアルなんて、存在しないんだよね……」
 浮気調査なんかじゃない。
 それは最初から分かっていた。
「正しい事って何なんだろう……」
 そう呟く僕に、圭介さんは言った。
「ユウ。君は、どの角度から見て、それが正しい事だと決めるんだ? その基準は自分なのか?」
「え……?」
 圭介さんは、僕の前にウォッカの入ったショットグラスを置いた。

「亮二は、何が正しいかなんて見ていない。何を正しいと決めたのかを見てるんだ」

 さっき聞いた言葉が、頭の中を流れた。

『心が渇き過ぎちまった。ただの水じゃ足りないんだ』

 だけど。
 今の僕には、その言葉の奥にあるものに、気付く事が出来なかった。
 自分の力の無さに気落ちするこの感覚。
 先に何があるのか、見ようともしなかった視野の狭さ。
 何を探しているのかさえ分からない、不安定な心。
 自分が自分である事が嫌で堪らなくなる。
 知恵や能力のある人間を、ただただ羨んで、自分の脳内構造が如何に単純かという事に腹を立てるだけ。

 また、あの時の感覚が甦る。
 自分が自分である事が嫌でたまらなくなる、この感情。
 どう頑張っても、何を頑張っていいのか、何を頑張っているのか分からない。
 いっそ、能力のある人間の脳と入れ替わったりしないかなんて、馬鹿な事を考える。
 努力してる?
 努力してない?
 努力の限界?
 努力ってなんだ?
 自分のやりたい事を現実化する事が努力なのか。
 自分に無いものを得ようとする事が努力なのか。
 僕はまだ。
 何一つ、見つけていない。
 ふいに、亮二さんが彼女に言っていた言葉を思い出した。

『俺たちに、あなたの駒になれと?』

 あの言葉の意味。
 僕に彼女の依頼を任せた理由。
 亮二さんが南条幸一の依頼を受けた理由。
 ただ。
 この写真を見る限り、彼女が正しいと決めた事は。

 彼に対しての裏切りに過ぎないのだろう。