4.スズラントウゲ

  希望。
  俯くきみの背中が愛おしい。


 ◇


 部屋のドアをノックする音が、意識を戻させる。目の奥がずんと重く感じられ、頭がふわふわする。

「まふー? 熱計った?」

「んあー……」

「38度。決定ね。今日は休んで、病院ね」

 昨日、雨の中を傘も無しに走ったために、ずぶ濡れで帰宅した。ロールケーキはビニール袋にしっかり入れて貰っていたので、濡れなかった。なんだかそれが笑える。

 温かいシャワーを浴びたのに、今朝、ベッドから起きあがれなかった。

「なんで雨の中を無理して帰ってくるのかねぇ、この子。電話くれれば迎えに行ったのに」

「……濡れたかった」

「なに言っているの。それで熱出してちゃ世話無いわね」

 ゆっくりでいいから着替えていらっしゃいと言って、お母さんは部屋を出ていった。

 正直、病院なんか行かないで寝ていたいところだけれど、こじらせると大変だから、ちゃんと診て貰うとお母さんが言うので従うことにする。

 寒気がして食欲も無い。熱のせいでふらつく足元に注意しながら、窮屈でない服に着替えた。

 お母さんの運転する車で、近所の病院へ行った。

 月曜日なのに意外と混雑していて、待たされるのを覚悟した。

「喉が渇かない? なにか食べたいものは?」
 
 お母さんが静かに聞いてくる。そっと額に当てられた手が柔らかい。

「んーん。なにも……」

 気遣ってくれるけれど、だるくて食欲が無かった。うとうとしながら待合室で順番を待った。携帯を見る気力もなく、ずっとお母さんの肩にもたれていた。

 やっと呼ばれ、診察後に薬を貰った。白髪頭の優しそうなおじいちゃん先生が『新しく高校生になって、学校の疲れも出たんでしょうな』と言って頭を撫でてくれた。

 小さい頃からお世話になっている先生なのである。

 水分補給をしなさいと言われたので、帰りにコンビニでスポーツドリンクを買い、帰宅した。

「シュークリームとプリンとゼリーもあるから、なにか食べられるものを食べて」

「じゃあ、プリンがいいな」

「それ食べて、薬を飲んであと寝てなさいね」

「うん」

 また、額に手を当ててくれる。そんなに何度も触ったって変わらないでしょうと思って、お母さんの心配そうな顔を見ていると、眠くなってくる。

「そうだ、お母さん今日お客さん来るって言ってたよね」

「ああ、お断りしたよ。あなたの風邪うつしちゃ大変ですからね」

 ああ、それは申し訳ない。お茶とケーキでおしゃべりを楽しむはずだったのだろう。


 スポーツドリンクのペットボトル、コップと薬が乗ったトレーを置いて、お母さんは部屋を出ていった。

 ベッドの上で、だるい手を動かしてプリンを半分ほど食べ、薬をスポーツドリンクで流し込む。早く熱が下がるといい。ぼーっとするし、動けない。

 布団に体を横たえる。
 ふわりと浮くような感覚と熱っぽさが全身を包む。目を閉じると眼球も熱を持っていると感じた。

 また、お母さんにロールケーキを買ってきてあげよう。あのお店に行こう。亜弥も一緒だといいのだけれど。

 和泉くん、わたしの顔を見たくないかもしれないけれど、話しかけないで買い物するから、だから、いいよね。

 見ているだけなら、いいよね。そして、それで終わりにするから。お店には行かない。

 和泉くんを、中学のときから考えていたのだ。すぐに忘れることなんてできないし。

 キーホルダーを返すって言ったときの彼を思い出す。

 そんな、辛そうな顔をしないで。


 ◇


 深く、深く、眠った。

 目覚めて、一瞬、自分がいまどこにいて何をしているのか分からなかった。映画のように数本の夢を見ていたような記憶があるのだけど、内容が思い出せなかった。

 部屋が薄暗い。細く開いているカーテンから光は入ってこない。どうやらもう太陽は沈んだ時間のようだ。
 ハンガーに制服がかけてあって、自分が学校を休んだことを思い出す。
 起きあがると、だいぶ体が楽になっていた。熱が下がったのかもしれない。
 枕元に置いてあった携帯にランプが点灯している。

『だいじょうぶー?』

『おーい、生きてるかぁ』

 亜弥とタロちゃんから、いくつかメッセージが入っていた。

 病院に行ったことは覚えているけれど、周辺の記憶がおぼろげだった。それだけ高熱が出てしまったということなのだろう。

 自覚が無かったけれど、雨に濡れたぐらいでこんなに重い風邪をひくなんて、よほど疲れが溜まっていたのだろう。

 相変わらず、新生活って慣れるまで大変。
 高校生活は環境が変わっただけでなく、自分のなかで新しいことも起こったから。

 ひとつ溜息をついて、ベッドから降りた。

 体温計を脇の下に挟み、温くなったスポーツドリンクを飲んだ。喉が渇いていた。あと、お腹も空いている。部屋を出てリビングへ行った。

「あら、おはよう」

「おはよー」

「もう夜の6時ですよ」

 病院から帰ってきたのが昼前だったはずだから、ずいぶんと長く眠っていたものだ。
 ちょうど、体温計の電子音が鳴る。取り出すと『37.2』と表示されていた。

「熱下がったね。良かった。食べられそう? お粥あるけど」

「うん。お腹空いた……」

「食欲出てきたのね。安心したわ」

 リビングのソファに腰を下ろしてテレビを点ける。
 地元のスポーツに特化した番組が放送されていた。プロ野球チームやサッカーチームの話題、もちろん『仙台sparrows』の話題もやっていた。

 お母さんが用意してくれた温かいお粥を食べる。お粥には溶き卵が入っていた。


「美味しい……」

「調子はどう? まだ寒気する?」

「ううん。もう平気」

「それ食べたら、夜の分の薬を飲んで、横になりなさいね」

 さっき起きたばかりなのに、眠れるだろうか。

「消耗しているんだから、ベッドに入っていれば眠れるから」